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化学の未解決問題-2025

化学の未解決問題は、分子や材料のふるまいを「原子・電子のレベルで理解し、狙って設計し、制御する」ことを妨げている理論・計測・合成・情報のギャップとして現れるものである。これらは個別分野の難問に留まらず、エネルギー・環境・生命・材料・情報に跨る学術基盤の更新そのものを要求するものである。

参考ドキュメント

  1. 日本化学会, 30年後の化学の夢ロードマップ(WEB公開ページ)
    https://www.chemistry.or.jp/activity/report/30.html
  2. JST サイエンスポータル, 「30年後の化学の夢」
    https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20120326_02/index.html
  3. 日本学術会議, 化学分野の現状・将来展望に関する報告(化学委員会)
    https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-h-3-6.pdf

1. 化学における「未解決」とは何か

化学は「物質を創る」「物質の変化を知る」「物質の機能を生かす」学問であり、物理学・生物学・工学と学際領域を共有しつつ、分子スケールの構造とダイナミクスから巨視的機能までを橋渡しする基盤科学である。ゆえに「未解決問題」は、単に証明問題や定理の未決着に限らず、以下のような形で現れる。

  • 記述の限界:支配方程式(量子力学、統計力学、反応速度論)が既知でも、現実の系に適用可能な近似が不足している。
  • 観測の限界:反応中間体や界面の瞬間構造、電子の再配置など、決定的な自由度を直接に捉える計測が難しい。
  • 設計の限界:触媒・電池・機能材料などで「何を変えれば何が良くなるか」を第一原理から逆算できない。
  • 体系化の限界:膨大な化学空間(組成・構造・条件)の探索を、再現性のある知識として統合できない。

未解決問題は個々の現象の難しさに由来するだけでなく、理論(モデル)・観測(計測)・創製(合成)・同定(分析)・統合(情報)という複数の層を同時に押し上げる必要がある点で特徴づけられる。

2. 化学の未解決問題を形作る3つの「壁」

未解決問題を俯瞰すると、繰り返し登場する障壁は概ね次の3つに集約できる。

2.1 多自由度・階層性の壁

現実の物質は、電子(フェムト秒)—原子振動(ピコ秒)—拡散・相変化(ナノ秒〜秒)—組織形成(秒〜年)と幅広い時間・空間スケールを持つ。単一スケールの理論や計測だけでは「本当に効く自由度」が見えにくい。

2.2 非平衡・界面の壁

触媒表面、電極界面、溶液、細孔、欠陥、反応場など、化学の重要舞台はしばしば非平衡であり、界面である。界面では平均場的な記述(連続体・静的構造)だけでは足りず、溶媒・電場・荷電・反応が強結合する。

2.3 逆問題の壁

「欲しい機能」から「必要な構造・反応経路・合成条件」を逆算することは一般に難しい。化学は順問題(与えた構造→性質)だけでなく、逆問題(目標→候補探索)を避けて通れない。

以下では、化学の未解決問題を代表的な7つの柱として整理し、何が難しいのか、どのような学術要素が絡むのかを具体的に述べる。

3. 量子多体系としての化学:電子相関と励起状態の困難

3.1 量子化学の基本式とスケーリング問題

出発点は多電子シュレーディンガー方程式である。

H^Ψ(r1,,rN;R)=EΨ(r1,,rN;R)

ここで ri は電子座標、R は核配置である。厳密解は一般に不可能であり、近似(Hartree–Fock、CI、CC、DFT、MP2など)によって扱う。しかし、精度を上げると計算量は急増し、現実系(界面、溶液、大規模欠陥)へ適用しにくい。

未解決性は「大きな系を計算できない」だけではない。重要なのは、以下のような状況で既存近似が本質的に破綻しやすい点である。

  • 強相関(遷移金属酸化物、触媒活性点、金属—分子結合の切断生成)
  • 励起状態・非断熱過程(光化学、エネルギー移動、電荷移動)
  • 長距離相互作用と分散力(疎水性、吸着、分子集合体)
  • 電荷の局在・分極・自己相互作用誤差(反応障壁、電位、欠陥準位)

3.2 DFTの限界:基底状態から反応と界面へ

密度汎関数理論(DFT)は、電子密度 n(r) による記述を与える。

E[n]=Ts[n]+vext(r)n(r)dr+EH[n]+Exc[n]

Kohn–Sham方程式は

[122+veff(r)]ϕi(r)=εiϕi(r),n(r)=i|ϕi(r)|2

で与えられる。実用上の鍵は交換相関汎関数 Exc[n] の近似であり、ここに限界が集中する。未解決問題としては、次が特に重要である。

  • 汎関数の体系的改良と誤差評価(不確かさの定量化)
  • 反応障壁・遷移状態・電位を安定に再現する枠組み
  • 強相関・スピン状態・多参照性を含む系への一般的拡張
  • 界面・溶媒・電場下での電子状態の信頼性確保

これらは、触媒・電池・光機能材料の設計精度を左右する根本課題である。

3.3 光化学:励起状態と円錐交差

光化学では、ポテンシャルエネルギー面(PES)が複数状態で交差・縮退し、非断熱遷移が起こる。円錐交差(conical intersection)はその代表であり、励起状態から基底状態へ超高速に緩和する「抜け道」を形成する。円錐交差近傍ではボルン・オッペンハイマー分離が破れ、核運動と電子状態が不可分となる。

概念的には、2状態のエネルギー差がある座標で消失し、

E1(Q)=E2(Q)

となる多次元の縮退空間が現れる。実験・理論の双方で、円錐交差を含む反応座標の同定、モードの協奏(多モード効果)、溶媒や蛋白質環境の影響の取り込みが難題である。

4. 反応ダイナミクス:遷移状態から実時間観測へ

4.1 反応速度論の基本と限界

熱反応の基本像は遷移状態理論であり、反応速度は

k(T)=κ(T)kBThexp(ΔGkBT)

で表される(κ は透過係数)。しかし現実には、反応は溶媒揺らぎ、拡散、分子集団、界面吸着、非平衡電場などと結合し、単純な「障壁越え」像が成立しにくい。

未解決問題は、次の問いに集約できる。

  • 何が本当の反応座標であるか(高次元自由度の縮約)
  • 反応場(溶媒、界面、電場)が障壁や機構をどう変えるか
  • 反応が競合する多数経路の選択性(分岐)の予測
  • 量子トンネルやゼロ点振動が支配する領域の一般論

4.2 超高速計測と構造の直接追跡

フェムト秒分光、超高速電子回折、XFELなどにより、反応中間体の構造変化を時間分解で追う試みが進展している。しかし「電子の再配置→核配置応答→溶媒緩和」という連鎖を同時に捉えることは依然難しい。

この分野の核心は、時間分解データから「構造・電子状態・反応座標」を逆に同定することである。観測量(散乱像、吸収、発光、回折)と、分子波束の運動を結ぶ理論が不可欠となる。

5. 触媒:活性点・選択性・動的構造の起源

5.1 触媒科学の中心課題

触媒の究極目標は、活性・選択性・耐久性を同時に達成する設計原理の確立である。これを阻む未解決問題は多いが、要点は以下である。

  • 活性点の同定:どの原子配置・電子状態が反応を担うか
  • 動的再構成:反応条件下で表面や配位環境が変化する
  • 多段階反応ネットワーク:律速段階が条件で入れ替わる
  • 反応の場:溶媒、電場、共存種、被毒、欠陥が本質に絡む

5.2 スケーリング則とその突破

触媒設計では吸着エネルギーの相関(スケーリング則)が便利である一方、選択性を上げようとすると別の性能が落ちるというトレードオフが現れる。未解決の核心は「なぜスケーリングが成立するか」と「どの自由度を導入すればスケーリングを破れるか」である。単原子触媒、界面触媒、動的配位、外場(光・電場・応力)などが候補となるが、一般則はまだ確立していない。

6. 電気化学界面:電気二重層と固体電解質界面(SEI)の理解

6.1 電気二重層(EDL)のミクロな実体

電極や酸化物表面と電解液の界面では、表面電荷と反対符号のイオンや溶媒配向が生じ、電気二重層が形成される。古典的には Gouy–Chapman–Stern モデルなどの平均場理論が用いられるが、実際の界面では

  • イオンの特異吸着(内圏・外圏錯体)
  • 溶媒の層状構造と反応(解離・再結合)
  • 局所電場の強い不均一性
  • 電極表面の原子スケール粗さや欠陥

が支配的となり、単一の連続体電位像では捉えきれない。ミクロ理解の不足が、腐食、電池、電気触媒、光電極の設計を難しくしている。

6.2 SEI形成:ナノメートル薄膜が支配する電池寿命

リチウムイオン電池などでは電極表面に固体電解質界面(SEI)が形成され、Li+ は通し電子は遮る「受動膜」として機能する。SEIは複雑な分解生成物の混合相であり、その形成機構・成長・破壊の統一的理解が未だ不十分である。計算化学・分子動力学・その場計測を統合して、以下を確立する必要がある。

  • 初期反応の分岐(何が先に分解するか)
  • SEIの組成・構造・イオン伝導の関係
  • 充放電での機械的損傷と再形成
  • 添加剤や電解液設計が働く機構

EDLとSEIはいずれも「界面での電荷・溶媒・反応」が絡む点で共通し、界面科学の未解決問題の中心である。

7. 生命の起源とホモキラリティ

生命を構成するアミノ酸・糖は、一方の鏡像体(エナンチオマー)に偏っている。無生物的環境では左右の生成確率が等しいと考えるのが自然であり、「なぜ偏りが生じ、増幅され、維持されたのか」は根本問題である。

鍵となる概念は、エナンチオマー過剰(ee)の生成と増幅であり、

ee=[R][S][R]+[S]

で表される。未解決性は、単一機構の欠如というより、複数機構(不斉光分解、非線形自己触媒、結晶化による分別、鉱物表面での選択吸着など)がどの条件でどの程度働き得るかを、地球化学的現実性と結びつけて説明する点にある。鏡像非対称性(ホモキラリティ)問題は、化学反応ネットワークと非平衡自己組織化の交点に位置する。

8. 化学空間をどう扱うか:分子・材料設計の体系化

化学の対象は「分子の組合せ」「反応条件」「結晶構造」「欠陥」「界面」「多相系」へ拡張し続け、探索空間は爆発的に増大する。未解決問題は、巨大な化学空間から有望候補を見出し、理由付けとともに知識として固定する方法論にある。

重要な課題は次である。

  • 反応ネットワークの全体像(反応経路の探索と収束)
  • 合成可能性と安定性(計算上の候補が実在する条件)
  • データの偏りと表現(どの特徴量が物理を担うか)
  • 不確かさの扱い(予測の信頼度と実験計画)

この領域では、計算化学、計測、データ駆動手法が相補的に必要であるが、最終的には「因果的理解」と「設計可能性」の一致が求められる。

9. 主題別の比較

柱となる未解決問題何が難しいか(要点)重要な学術要素影響の大きい応用領域
電子相関と励起状態多参照性、非断熱、汎関数誤差量子化学、DFT改良、電子状態理論触媒、光機能、遷移金属材料
反応ダイナミクス高次元座標、溶媒・界面結合統計力学、分光、回折、シミュレーション合成、燃焼、気相化学、溶液反応
触媒の設計原理活性点の動的変化、ネットワーク表面科学、反応工学、計算化学CO2変換、アンモニア、化学プロセス
電気化学界面(EDL/SEI)電場・溶媒・反応の強結合界面科学、電気化学、MD、in situ電池、電気触媒、腐食、光電極
ホモキラリティ起源微小偏りの生成と増幅の整合非平衡化学、結晶化、地球化学生命起源、化学進化、分子認識
化学空間の体系化探索空間の巨大さと再現性データ科学、生成設計、合成論創薬、材料探索、プロセス最適化
マルチスケール統合時空間スケールの断絶モデル縮約、多物理連成界面材料、電池、触媒反応場

10. 国内の動向と学術的整理の枠組み

日本国内では、化学の将来像や課題を可視化する試みとして、日本化学会による「30年後の化学の夢ロードマップ」や、日本学術会議による化学分野の現状・将来展望に関する報告が公表されている。これらは「未解決問題」を直接列挙するものではないが、学術の発展方向を社会課題と基礎研究の双方から整理しており、未解決問題を俯瞰する補助線となる。

  • 日本化学会のロードマップは、有機・無機・生物化学・物理化学・ナノテク・エネルギー資源・環境・医療健康・材料化学など多分野に跨って将来目標を整理している。
  • 日本学術会議の報告は、化学が「物質を創造する基盤科学」であること、学際領域を共有しつつ社会課題にも対応することを明示し、長期的課題の観点を提示している。

これらの枠組みを参照することで、未解決問題を「理論の未整備」「界面・非平衡の理解不足」「設計原理の欠如」「観測困難」などの構造として捉えやすくなる。

まとめと展望

化学の未解決問題は、(i) 多自由度・階層性、(ii) 非平衡・界面、(iii) 逆問題という3つの壁に集約され、電子相関・励起状態、反応ダイナミクス、触媒、電気化学界面、生命起源、化学空間探索といった柱を形成している。今後は、量子化学の精度とスケールを同時に押し上げる理論、反応場の瞬間構造を捉える計測、そして探索空間を知識として統合する方法論が相互に噛み合うことが必要である。とりわけ界面と非平衡に関するミクロ理解は、電池・触媒・腐食・光電極などの基盤技術と直結しており、化学の学術的骨格を更新する中心課題として位置づけられるである。

参考文献・関連研究