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量子カオス理論

量子カオス理論は、量子系には古典の軌道が存在しないにもかかわらず、系の複雑さが準位の相関、固有状態の構造、情報の拡散、輸送のゆらぎとして普遍的に現れることを扱う理論である。特に、相互作用・無秩序・境界形状・対称性の組合せが「無秩序に見えるが普遍則に従う」領域を生む点に特徴がある。

参考ドキュメント

  1. F. Haake, Quantum Signatures of Chaos, Springer(教科書) https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-1-4899-3698-1_38
  2. C. W. J. Beenakker, Random-matrix theory of quantum transport, Rev. Mod. Phys. 69, 731 (1997)(量子輸送とRMTの総説) https://arxiv.org/abs/cond-mat/9612179
  3. 小山信也, 量子カオスの数論的側面, 日本物理学会誌 59(7), 436–443 (2004)(日本語解説) https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/59/7/59_7_436/_article/-char/ja/

1. 量子カオスとは何か:軌道の代わりに何を見るのか

古典カオスでは位相空間の軌道の不安定性が中心となるが、量子系では状態はベクトル(あるいは密度演算子)であり、時間発展はユニタリである。

iddt|ψ(t)=H^|ψ(t),|ψ(t)=eiH^t/|ψ(0)

このため、量子カオスでは軌道不安定性を直接追うのではなく、次のような観測可能な量に置き換える。

  • エネルギー準位の統計(準位反発、長距離相関)
  • 固有状態の空間的・基底依存の複雑さ(エルゴード性、局在)
  • 初期局所情報が全体系の自由度へ混ざる速さ(スクランブリング)
  • 開放系散乱の統計(透過・反射、ゆらぎ、雑音)
  • 熱化の成立条件(固有状態熱化仮説、破れ)

量子カオスの古典的定義は一言で言えば、対応する古典極限がカオス的な量子系において、準位相関がランダム行列理論(RMT)の普遍統計に従うという描像である。一方、多体系では古典極限が曖昧であっても、非可積分性に伴う固有状態の典型性(ETH)や、時間相関の普遍挙動(SFF、OTOC)を通じて「カオス性」を議論する枠組みが発展してきた。

2. 準位統計の基本:Poisson と Wigner–Dyson

2.1 アンフォールディング(unfolding)

準位統計は「平均的な準位密度の形」を取り去った後に議論する。固有エネルギー En に対し、平均累積準位数 N¯(E) を用いて

εn=N¯(En),sn=εn+1εn

を定義すると、平均間隔が s=1 に正規化されたスペーシング列が得られる。物質・モデルに固有な状態密度のゆっくりした変化と、普遍的なレベル相関を分離するための操作である。

2.2 Poisson(可積分・局在)と Wigner–Dyson(非可積分・エルゴード)

無相関な準位列では

PP(s)=es

となる(Poisson)。これに対し、RMTに従う領域では準位反発が現れ、

Pβ(s)aβsβexp(bβs2)

の形(Wignerの近似)をとる。β は対称性で決まり、時間反転対称性やスピンの扱いに応じて β=1,2,4 が現れる。

短距離相関だけでなく長距離相関も重要であり、例えば数個以上離れた準位の相関は、拡散運動や有限サイズに由来する特性エネルギー(Thoulessエネルギーなど)でクロスオーバーし得る。これは、結晶欠陥や無秩序、ナノ構造境界が量子干渉を支配する状況で物性と直結する。

2.3 連続比 r 統計:アンフォールディング依存性の弱い指標

準位間隔 sn に対して

rn=min(sn,sn1)max(sn,sn1)[0,1]

を定義すると、N¯(E) の推定誤差の影響を受けにくい。典型値は

  • Poisson:r0.386
  • GOE:r0.536 などとして広く用いられる。

3. 対称性とランダム行列:GOE/GUE/GSE の選び方

RMTの普遍性は「系が複雑である」だけでは決まらず、対称性(特に時間反転、スピン回転、Kramers縮退)に強く拘束される。固体量子系ではスピン軌道相互作用、外部磁場、磁気秩序、結晶対称性が入り組むため、分類を明確にする意義が大きい。

主要な状況時間反転対称性Kramers縮退典型アンサンブル準位相関の要点
磁場なし、SOC弱、スピン回転が近似的に有効ありなし(実質単純)GOE(β=1準位反発 P(s)s
磁場あり、時間反転が破れるなしなしGUE(β=2反発が強い P(s)s2
時間反転あり、SOC強、半整数スピンありありGSE(β=4さらに強い反発 P(s)s4

結晶の空間群や保存量が残る場合、スペクトルを「同一の量子数ブロック」に分解してから統計を取る必要がある。混ぜたまま統計を取ると、別セクターの準位が重なり、Poissonに似た統計へ見かけ上近づくことがある。

4. 半古典論:周期軌道が準位相関に刻む指紋

量子カオス理論の核の一つは、古典力学の周期軌道群が量子準位密度の微細構造を支配するという半古典描像である。代表的にはGutzwillerの跡公式が知られ、

ρ(E)=ρ¯(E)+pAp(E)cos(Sp(E)π2μp)

と書ける。ここで p は古典周期軌道、Sp は作用、μp はMaslov指数である。

可積分系では、準位はPoisson的にクラスタリングする(Berry–Taborの描像)一方、古典極限が混合的(エルゴード的)な系ではWigner–Dyson型が現れる(Bohigas–Giannoni–Schmitの予想)。この対比は、境界形状が複雑な量子井戸、メゾスコピック・ビリヤード、あるいは有効質量近似が成り立つナノ構造のような状況で特に直観的である。

5. 多体系量子カオス:ETHとその破れ

5.1 固有状態熱化仮説(ETH)

多体系が外界とほぼ切り離されていても、局所観測量が熱平衡値へ緩和することがある。この成立条件を固有状態の側から表すのがETHである。典型的な表式は

Eα|O^|Eβ=O(E¯)δαβ+eS(E¯)/2f(E¯,ω)Rαβ,E¯=Eα+Eβ2,ω=EαEβ

である。S(E¯) はエントロピー、Rαβ は平均0・分散1程度の擬ランダム量である。この構造により、単一固有状態の局所部分系は(多くの場合)微視的詳細を失い、統計集団のように振る舞う。

5.2 破れ:MBL、可積分性、スカー

ETHは普遍ではない。代表的な例として以下がある。

  • 多体局在(MBL):無秩序と相互作用の組合せで熱化しない位相が現れ得る。準位統計はPoissonに近づき、エンタングルメントは面積則的になりやすい。
  • 厳密可積分系:保存量が無数にあり、準位統計はPoissonに近い。
  • 多体系量子スカー:非可積分にもかかわらず、特定の非熱的固有状態が存在し、動力学が長時間周期的・準周期的に戻ることがある。

固体物質では、乱れの形(置換無秩序、欠陥、界面粗さ)、相互作用の範囲、低次元性がこれらを左右し、スピン系・電子系・フォノン系の緩和の見え方を大きく変える。

6. スクランブリングとOTOC:量子情報的診断

6.1 OTOCと交換子成長

局所演算子 W^(t) が時間発展により非局所化していく度合いは、交換子の2乗平均などで特徴づけられる。例えば

C(t)=[W^(t),V^(0)]2

あるいはOTOC

F(t)=W^(t)V^(0)W^(t)V^(0)

が用いられる。初期には演算子支持が光円錐状に広がり(Lieb–Robinson境界)、系によっては C(t) が指数的に増大する領域を持つことがある。

6.2 スクランブリングと量子カオスの関係

スクランブリングは量子情報が部分系へ拡散し復元困難になる現象であり、量子カオスと関連は深いが同一ではない。量子誤り訂正やHayden–Preskill型の設定を通じて、両者の非同一性とクロスオーバーが議論されている。多体系の「複雑さ」を一つの指標で代表させるのではなく、準位統計(静的)とOTOCや復元可能性(動的)を併置することが、有効な理解を与える。

7. メゾスコピック輸送:RMTが直接物性に出る場面

離散準位や干渉が直接観測されるサイズ領域では、量子カオスは輸送の統計法則として現れる。量子ドットや量子点接合では、散乱行列 S^ の統計としてRMTが現れ、伝導度 G やショットノイズ、普遍伝導ゆらぎ(UCF)が議論される。

例として、ランダウアー形式

G=2e2hTr(t^t^)

で伝導度が与えられるとき、透過行列 t^ の統計がGOE/GUEなどのアンサンブルで整理される。外部磁場やSOCによって対称性が切り替わり、平均値や分散が普遍的に変化する。これは「材料固有のパラメータ」だけではなく「対称性クラス」によって統計が決まる典型例である。

8. 数値計算で扱う代表モデルと、量子カオスが見える量

量子カオス理論は特定の物質に依存しない普遍性を狙う一方で、実際の系では有効モデルの選択が重要である。以下は固体量子系で頻出する例である。

モデル典型ハミルトニアン量子カオス的特徴が出やすい量物理的含意
量子ビリヤード・量子ドット(単粒子)H^=p^22m+V(r)準位統計、波動関数強度の統計ナノ構造境界・不規則性が普遍統計へ写像される
スピン鎖(相互作用系)H^=iJS^iS^i+1+r統計、エンタングルメント成長、OTOC熱化・MBL・スカーの判別
乱れのある格子電子(Anderson/Hubbard)H^=ijtijcicj+Uinini+iϵini金属絶縁体転移近傍のスペクトル相関無秩序と相互作用が緩和と輸送を規定する
Floquet駆動系U^F=Texp{i0TH^(t)dt}準エネルギー統計、加熱、SFF周期駆動下の長時間定常性の理解

9. 解析上の注意点:対称性分解・有限サイズ・開放性

量子カオスの指標は強力であるが、解釈には系統的な整理が要る。ここでは用語を避けつつ、頻繁に問題になる点を列挙する。

  • 対称性セクターを混ぜない:保存量(粒子数、運動量、パリティ、全スピンなど)ごとにスペクトルを分けて統計を取る。
  • 近接縮退の取り扱い:Kramers縮退や結晶対称性起源の多重度を除いた後に議論する。
  • 有限サイズの影響:多体系は可観測ヒルベルト空間が急増するため、到達可能なサイズで見える統計がクロスオーバー領域に留まることがある。
  • 開放系か閉鎖系か:散乱(開放)では S^ の統計、閉鎖では H^ の準位統計が中心となり、同じ言葉でも対象が異なる。
  • 無秩序平均:単一サンプルの揺らぎ構造と、配置平均での普遍性の議論は区別する。

まとめ

量子カオス理論は、固体量子系の複雑さを、準位統計(RMT普遍性)、固有状態の典型性(ETH)、非平衡での情報混合(スクランブリング、OTOC)、および輸送ゆらぎ(散乱行列統計)として定量化する枠組みである。相互作用・無秩序・SOC・外場などの要素は、個別の現象を多様に見せつつも、対称性クラスと普遍統計へ収斂させる役割を持ち、緩和・熱化・輸送といった物性の理解を統一的に進める基盤となるのである。

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