ダイソン方程式と多体電子状態の記述
ダイソン方程式は、相互作用を含む量子多体系のグリーン関数を、自由系の伝播と自己エネルギーへ分解して記述する枠組みである。電子構造・分光・輸送・応答の多くは、一次(1粒子)グリーン関数と、その拡張としての2粒子グリーン関数から統一的に議論できる。
参考ドキュメント
- F. J. Dyson, The S Matrix in Quantum Electrodynamics, Physical Review 75, 1736 (1949) https://doi.org/10.1103/PhysRev.75.1736
- L. Hedin, New Method for Calculating the One-Particle Green's Function with Application to the Electron-Gas Problem, Physical Review 139, A796 (1965) https://doi.org/10.1103/PhysRev.139.A796
- 東京大学 物性研究所, Korringa–Kohn–Rostoker Method(KKRグリーン関数法のノート, PDF) https://kkr.issp.u-tokyo.ac.jp/document/kkrnote.pdf
1. グリーン関数とは
グリーン関数は「ある自由度が、時空間的にどのように伝わるか」を定量化する道具である。固体中の電子を例にすると、結晶周期性や複数軌道、スピン、さらに電子相関・無秩序・界面・欠陥などにより、単純な一電子像からのずれが生じる。このずれを、エネルギー依存の複素量として集約したものが自己エネルギーであり、ダイソン方程式はその集約を数式として確立する。
グリーン関数の利点は、(i) スペクトル(準粒子と寿命)を与える、(ii) 応答関数(線形応答)を与える、(iii) 摂動論・近似理論を体系化する、の3点に要約できる。これらは、角度分解光電子分光、光学応答、電気伝導・熱伝導、スピン・電荷の揺らぎ、電子相関系の相転移などの議論に直結する。
2. 1粒子グリーン関数の基本定義
2.1 場の演算子と時間順序
電子の場の演算子を
で定義される。ここで
実時間形式では、因果性を明示する遅延(retarded)グリーン関数
が重要である。分光や散乱率と直接結びつくのは基本的に
2.2 松原(虚時間)グリーン関数
有限温度では虚時間
を定義する。フェルミオンの周波数は松原周波数
で離散化される。多体摂動論や数値計算(特に有限温度)では、まず松原形式で計算し、その後に解析接続で実周波数へ移す流れが多い。
2.3 よく用いるグリーン関数の比較
| 種類 | 記号 | 定義の中心 | 周波数変数 | 主な用途 |
|---|---|---|---|---|
| 時間順序 | 実周波数(時間) | 摂動展開・ダイアグラム | ||
| 遅延 | スペクトル・寿命・分光 | |||
| 先進 | 数学的整合・応答 | |||
| 松原 | 離散 | 有限温度・数値計算 | ||
| lesser/greater | 非平衡の占有を含む | 実周波数 | 非平衡輸送・緩和 |
3. 自由系グリーン関数
3.1 自由ハミルトニアンと基底
自由(非相互作用)系を
と書く(
3.2 周波数表示の形
並進対称な単一バンド(化学ポテンシャル
の形を持つ(厳密には
と簡潔である。
この段階ではスペクトルは
4. 相互作用の導入と摂動展開
4.1 相互作用描像と展開
全ハミルトニアンを
と分ける。相互作用描像では、時間発展は
で与えられ、期待値は
4.2 等比級数の再和と「既約」概念
1粒子グリーン関数の摂動展開をダイアグラムで眺めると、同じ部分構造が繰り返し現れる。繰り返しを最小単位(1粒子既約:1粒子線を1本切って分離できない)にまとめたものが自己エネルギー
その結果、完全グリーン関数
という構造を持つ。これは
5. ダイソン方程式の導出
5.1 積分方程式(時空間表示)
等比級数の再和を積分表示で書くと
となる。ここで
5.2 逆演算子形式
畳み込み積分を演算子積とみなすと
であり、両辺に
を得る。これはダイソン方程式の最もコンパクトな形である。多軌道・スピンを含む場合、
5.3 運動量・周波数表示
並進対称系では
となる(
6. 自己エネルギーの物理的意味
6.1 エネルギーシフトと散乱率
遅延自己エネルギーを
と分けると、実部は準粒子エネルギーのずれ(分散の再正規化)を与え、虚部は寿命(散乱率)を与える。因果性からフェルミオンでは通常
が要請される。
6.2 準粒子とスペクトルの幅
準粒子方程式を
で定義すると、その解
の形が得られる(十分鋭い準粒子が成立する範囲)。ここで
である。
6.3 クラマース・クローニッヒ関係
7. スペクトル関数と観測量への接続
7.1 スペクトル関数
遅延グリーン関数からスペクトル関数
を定義する。
和則として
が成立する(単純化した1粒子の規格化に相当する)。
7.2 DOS と局所量
状態密度は
で与えられる。複数軌道系では軌道射影DOSやサイト射影DOSは、グリーン関数の対角成分や射影演算子で表現できる。
7.3 観測量との対応の表
| 観測量 | 主要な理論量 | 関係の基本形 |
|---|---|---|
| 角度分解光電子分光 | 強度 | |
| 逆光電子・電子付加 | 占有の補完として | |
| 光学応答・伝導 | 電流相関(2粒子) | 久保公式で |
| 磁化率・電荷感受率 | 動的感受率 | 2粒子グリーン関数(頂点補正が重要) |
| 不純物・欠陥の局所状態 | 局所 |
8. 2粒子グリーン関数とベーテ・サルペーター型方程式
1粒子のダイソン方程式に対応して、2粒子(応答)ではベーテ・サルペーター方程式(BSE)が現れる。たとえば動的感受率
の形を持つ。RPAは頂点を単純化して和を取る近似であり、集団励起(プラズモン、スピン波など)の基本像を与える。一方で強相関や局所相互作用が強い場合、頂点補正が定量性を支配する。
9. 電子構造法・多体近似における位置づけ
9.1 GW近似(自己エネルギーの近似として)
ダイソン方程式は恒等式であり、近似は自己エネルギー
と置くものである。バンドギャップや準粒子エネルギーの改善に広く用いられる。
9.2 DMFT(局所自己エネルギー)
強相関系では、運動量依存を捨てて周波数依存を保持する局所自己エネルギー
が有効な場合がある。DMFTは格子模型を単一サイト(量子不純物)問題へ写像し、自己無撞着条件で浴(ハイブリダイゼーション)を決める。これによりモット転移や巨大質量増大など、バンド理論だけでは表しにくい現象を扱う。
9.3 KKRグリーン関数法と埋め込み(Dysonの幾何学的応用)
グリーン関数法の電子構造(多重散乱)では、参照系のグリーン関数
の形で「局所改変(欠陥、界面、クラスター)」を取り込む。これは自己エネルギーという多体起源とは別の意味での「Dyson型方程式」であり、同じ代数構造が埋め込み・散乱理論に現れる例である。無秩序・合金・欠陥の局所状態や散乱の扱いで重要である。
9.4 近似の比較
| 近似・枠組み | 自己エネルギー(または核) | 得意な物理 | 注意すべき点 |
|---|---|---|---|
| 摂動論(低次) | 特定次数の | 弱結合の補正 | 高次の寄与の取り込みが不足し得る |
| GW | 準粒子エネルギー、遮蔽 | 頂点補正の扱いによって差が出る | |
| DFT+DMFT | 局所 | 強相関、モット、温度依存 | 二重計数や局在空間の定義が効く |
| T行列・CPA 等 | 散乱の再和 | 不純物・無秩序 | 多体相関の扱いは別途必要 |
| BSE(2粒子) | 頂点 | 励起子、光学応答 | 基底の取り方・近似の選択が重要 |
10. 計算・解析で意識すべき整合性
10.1 因果性と分光の整合
10.2 実周波数と虚周波数の使い分け
虚周波数は収束性が良い一方、実周波数の微細構造(サテライト、狭いギャップ近傍など)を直接見ない。実周波数で直接解く方法と、虚周波数から移す方法はそれぞれ利点があり、対象(温度、散乱の強さ、必要な分解能)に応じて選ぶことになる。
10.3 行列構造(多軌道・スピン・超伝導)
現実の材料では
であり、固有値問題ではなく「逆行列のゼロ点」を探す形になる。スピン軌道相互作用や非共線磁性では、スピン空間の混合が入り、対角化と解釈の順序が重要になる。超伝導ではナンブ空間(粒子・穴)へ拡張し、異常グリーン関数を含む行列ダイソン方程式として扱う。
11. ダイソン方程式から物性へ至る基本の流れ(概念)
- 有効一電子ハミルトニアン(または参照系)から
を定める。結晶では 表示、欠陥・界面では実空間表示が自然である。 - 相互作用や散乱に基づき
(あるいは埋め込み核)を近似して与える。 - ダイソン方程式
を解いて を得る。 、DOS、局所DOS、準粒子分散、寿命などを から計算する。 - 応答は2粒子量(
や電流相関)へ進み、必要なら頂点補正を含む方程式を解く。
この見取り図により、電子相関・無秩序・界面・励起の多様な題材が、同じ数式構造の上に整理される。
まとめ
ダイソン方程式は、完全グリーン関数を自由グリーン関数と自己エネルギーに分解し、相互作用の効果を一つの核へ集約する恒等式である。自己エネルギーの実部と虚部はスペクトルの位置と幅を支配し、スペクトル関数やDOS、さらに応答関数の議論へ直結する。GWやDMFT、グリーン関数法の電子構造、BSEなどの多様な理論は、どの核をどの近似で与えるかという差として整理でき、材料の電子状態・分光・輸送・揺らぎを統一的に扱う基盤となる。
関連研究
- F. J. Dyson, The Radiation Theories of Tomonaga, Schwinger, and Feynman, Physical Review 75, 486 (1949) https://doi.org/10.1103/PhysRev.75.486
- A. Georges, G. Kotliar, W. Krauth, M. J. Rozenberg, Dynamical mean-field theory of strongly correlated fermion systems and the limit of infinite dimensions, Rev. Mod. Phys. 68, 13 (1996) https://doi.org/10.1103/RevModPhys.68.13
- G. Kotliar et al., Electronic structure calculations with dynamical mean-field theory, Rev. Mod. Phys. 78, 865 (2006) https://doi.org/10.1103/RevModPhys.78.865
- F. Aryasetiawan and O. Gunnarsson, The GW method, Rep. Prog. Phys. 61, 237 (1998)(arXiv版) https://arxiv.org/abs/cond-mat/9712013
- D. Golze, M. Dvorak, P. Rinke, The GW Compendium: A Practical Guide to Theoretical Photoemission Spectroscopy, Frontiers in Chemistry 7, 377 (2019) https://doi.org/10.3389/fchem.2019.00377
- 京都大学リポジトリ: 多体効果の最前線(2粒子グリーン関数とBSEの講義ノート, PDF) https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstream/2433/225166/1/bussei_el_061205.pdf
- 北海道大学 木田研究室: 量子輸送方程式と非平衡エントロピー(Dyson方程式への言及を含む, PDF) https://phys.sci.hokudai.ac.jp/~kita/QTEver3.pdf