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スピングラスの物理と応用

スピングラスは、相互作用の無秩序とフラストレーションにより、スピンが長距離秩序を作らないまま低温で凍結する磁性状態である。平衡・非平衡の両面で独特な応答(遅い緩和、履歴依存、記憶効果)を示し、最適化や計算の物理実装とも深く接続している。

参考ドキュメント

  • K. H. Fischer and J. A. Hertz, Spin glasses: Experimental facts, theoretical concepts, and open questions, Rev. Mod. Phys. 198 (1991) 245–290 などのレビュー。
  • A. Altieri and M. Baity-Jesi, An Introduction to the Theory of Spin Glasses, arXiv:1806.04685。
  • 都 福仁、「スピングラス」、日本物理学会誌 32 巻 7 号(1977)ほか、日本語での総説。

1. スピングラスとは何か

スピングラスの本質は、(i) 相互作用の符号や強さが空間的に乱れていること(無秩序)、(ii) 同時にすべての結合を満足できない拘束が幾何学的・相互作用的に内在すること(フラストレーション)にある。その結果、低温においても「全体として一様に揃う」強磁性秩序や、周期的な反強磁性秩序が成立せず、局所的に相関は発達するが、多数の準安定状態が密に存在するという、粗い言い方をすれば“絡み合った”自由エネルギー地形が現れる。

典型例は、非磁性母体(Cu, Au, Ag など)に磁性原子(Mn, Fe など)を希薄に混ぜた合金であり、RKKY相互作用の振動性と不純物配置のランダムさによって、強磁性結合と反強磁性結合が混在しやすい。歴史的にも、これらの合金で交流帯磁率の鋭いカスプ(凍結温度 Tg)や FC/ZFC 分岐が観測されたことが、スピングラス概念の確立を促した。

2. EA模型とSK模型

2.1 Edwards–Anderson (EA) 模型(有限次元・短距離)

最小の記述として、Ising スピン si=±1 に対するハミルトニアン HEA=ijJijsisjihisi を考える。ここで Jij は結合ごとに乱数として与えられ、正負が混在する。hi は外場または局所場である。EA 模型は「実材料に近い有限次元・短距離相互作用」という意味で、理論・数値研究の標準的出発点である。

2.2 Sherrington–Kirkpatrick (SK) 模型(平均場・無限範囲)

平均場の可解模型として HSK=i<jJijsisj,JijN(0,J2N) が導入される。全ての対が相互作用し、結合はガウス乱数で与えられる。1/N スケーリングにより熱力学極限が定義でき、平均場スピングラスの骨格(レプリカ法、秩序パラメータ行列など)が構築される。

3. 相転移の指標:秩序パラメータと非線形応答

3.1 Edwards–Anderson 秩序パラメータ

スピングラスでは、通常の磁化 m=1Nisi がゼロでも、各サイトの“凍結”を表す量 qEA=1Ni[si2]dis が有限になり得る。 は熱平均、[]dis は無秩序平均である。qEA は「向きは空間的にランダムだが、時間的には固定化している」状態を定義する代表的指標である。

3.2 オーバーラップ分布とレプリカ対称性の破れ

同一の無秩序実現に対して独立に熱平衡化した 2 つの系(レプリカ)a,b を考え、オーバーラップ qab=1Nisi(a)si(b) を定義する。平均場理論では、q の分布 P(q) がスピングラス相の微細構造を運び、Parisi によるレプリカ対称性の破れ(RSB)が、無数の純粋状態の階層構造を記述する枠組みを与える。

3.3 非線形帯磁率と凍結の検出

小さな外場 H に対する磁化を M=χ1H+χ3H3+χ5H5+ と展開すると、スピングラス転移近傍で高次係数(特に χ3)が強く増大し得る。これは「線形応答だけでは見えにくい臨界性」を拾うための標準的アプローチであり、古典的にも議論されてきた。

4. 特徴的ダイナミクス:エイジング・記憶・若返り

スピングラスが“難しい”最大の理由の一つは、平衡に達する時間スケールが実験時間を容易に超える点にある。代表的現象は以下である。

  • エイジング:ある温度 T<Tg に落として待ち時間 tw を置くと、その後の緩和が tw に依存する。系の有効年齢が増すように応答が遅くなる。
  • 記憶効果:冷却途中で特定温度で保持すると、その温度の履歴が後の昇温で“痕跡”として現れる。
  • 若返り(rejuvenation):温度を少し変えると、別の自由度が再び活性化して“若い”応答に戻るように見える。

これらは、自由エネルギー地形が多数の谷を持ち、温度によって有効に探索されるスケールが変わるという像(階層的・カオス的描像)と結び付けて議論される。

緩和の経験的フィットとしては、熱残留磁化(TRM)の減衰を M(t)exp[(tτ)β] (伸長指数 β<1)で表すことが多く、単一時定数ではなく広い緩和時間分布が示唆される。

5. 物質群と相のバリエーション

スピングラスは単一の“物質名”ではなく、無秩序と競合相互作用があれば多様な系に現れる。代表的分類をまとめる。

分類代表例典型的特徴備考
カノニカル(希薄合金)CuMn, AuFe などRKKY 由来の競合、Tg で交流帯磁率カスプ、FC/ZFC 分岐歴史的典型系
絶縁体スピングラス一部の酸化物・フッ化物など超交換の乱れ、誘電・格子自由度との結合が効く場合もある物質依存が大きい
クラスター/スーパースピンナノ粒子集合体など“スピン”が粒子磁気モーメント(超常磁性に近いが相互作用で凍結)バルク SG との峻別が重要
リエントラント強磁性秩序の後に SG 様凍結強磁性背景+乱れによる再凍結相図の解釈に注意

実材料では、化学的不規則、サイト混合、欠陥、粒界、無秩序な交換経路など、無秩序の起源が多岐にわたるため、「何が乱れているのか」を同定することが、現象理解の基礎となる。

6. 理論手法:レプリカ法とゲージ対称性

6.1 レプリカ法の入口

無秩序平均された自由エネルギー F=kBTlnZ を扱うために、しばしば lnZ=limn0Zn1n を用いる。ここで n は形式的パラメータであり、計算後に n0 極限を取る。平均場理論では、レプリカ間の秩序パラメータ行列 qab の構造が相の本質を担い、RSB に至る。

6.2 ゲージ対称性と厳密関係

スピングラスには、特定の条件下で厳密な関係式が導ける“ゲージ対称性”が存在し、統計物理・数値手法の発展に寄与してきた。スピングラス線(いわゆる Nishimori line)のような概念は、無秩序強度と温度の特定の関係において物理量が厳密に評価できる例として知られ、理論的・数値的研究の基準点として利用されている。

6.3 数値手法の要点

有限次元 EA 模型の低温物性は依然として難問が多く、数値シミュレーションが中心的役割を担う。基本セットは以下である。

  • モンテカルロ(単一スピン反転。クラスタ法はフラストレーション下で効きにくいことが多い)
  • パラレルテンパリング(レプリカ交換)による平衡化促進
  • ゼロ温度最適化(基底状態探索)と励起の解析
  • 動力学モンテカルロ、ランジュバン型ダイナミクス(モデルに依存)

相転移温度の決定や臨界指数の抽出には、有限サイズスケーリング解析が不可欠であり、無秩序平均の収束性とサンプル間揺らぎへの注意が必要である。

7. 応用:スピングラスと最適化、イジングマシン

7.1 組合せ最適化との対応

Ising ハミルトニアン E({si})=i<jJijsisjihisi の基底状態探索は、一般に困難な最適化問題の原型とみなされる。スピングラスが持つ“粗いエネルギー地形”は、最適化が局所解に捕まりやすい状況の物理的アナロジーであり、焼きなまし(温度を下げて基底状態へ)という発想もここから自然に導かれる。

7.2 物理系で解く:量子アニーリングとコヒーレントイジングマシン

近年は、Ising 模型や QUBO を物理ハードウェアへ写像し、相互作用する多数自由度の緩和で最適化を行う枠組みが発展している。量子アニーリング、光学系を用いるコヒーレントイジングマシン(CIM)などは、その代表例である。国内でも CIM の大規模化や性能比較が公表され、研究開発が継続している。

ここで重要なのは、スピングラスは「最適化の敵」であると同時に「最適化問題そのもののモデル」でもあるという二面性である。すなわち、乱れた結合は探索空間を rugged にするが、その ruggedness を制御・利用できれば、難問のベンチマークやアルゴリズム設計の指針にもなる。

8. 測定・解析の定番プロトコル

観測量代表手法何が分かるか典型的シグネチャ
交流帯磁率 χ(ω,T)AC 磁化測定凍結温度、緩和時間分布Tg でカスプ、周波数依存
FC/ZFC 磁化DC 磁化測定履歴依存、非平衡性Tg 以下で分岐
TRM/IRM温度・磁場プロトコルエイジング、記憶、若返りtw 依存の緩和、温度サイクル応答
非線形帯磁率 χ3高精度磁化測定臨界性、相転移の補助判定χ3 の増大
μSR・中性子散乱動的相関時間・空間スケールの緩和スローダウンの直接検出

実系では「本当に熱平衡に近いのか」「粒成長や相分離など別要因が混ざっていないか」が常に問題になるため、複数プローブの整合が重要である。

9. 誤解しやすい点と周辺概念

  • フラストレート磁性とスピングラスは同義ではない。幾何学的フラストレーションがあっても、無秩序が弱ければスピングラスではなく量子スピン液体やスピンアイス等の別相が現れ得る。
  • クラスターガラスは“スピンが粒やクラスター”になっている場合が多く、カノニカル SG と同じ解析を機械的に当てはめると誤ることがある。
  • “ガラス”という語から構造ガラスと安易に同一視されがちだが、自由度・相互作用・秩序変数が異なり、共通点(粗い地形、非平衡)と相違点(対称性、長距離相関)を分けて扱う必要がある。

まとめ

スピングラスは、無秩序とフラストレーションが同時に働くことで、秩序の定義そのものを拡張し、平衡統計力学と非平衡ダイナミクスの境界に多くの課題を提示してきた相である。物性としての理解は、秩序パラメータ(qEAP(q))と、エイジング・記憶・若返りといった時間応答の両輪で進み、さらに最適化やイジングマシンのような計算体系へも自然につながっている。