Skip to content

水素原子の電子軌道を導く

水素原子の電子軌道(s,p,d,f)は、中心力ポテンシャルのもとで波動関数を動径成分と角度成分に分離し、角度成分が球面調和関数 Ym になることから具体的に構成される。ここではエネルギー準位の導出とは重複を避け、軌道の「形」と「量子数(,m)」の対応を、数式の意味を逐一補足しながら展開するのである。

0. 量子状態と電子軌道の関係

水素原子における量子状態と電子軌道は、どちらも同じ定常波動関数 ψnm(r,θ,ϕ) を対象としている点で共通である。すなわち、シュレーディンガー方程式の固有関数は

ψnm(r,θ,ϕ)=Rn(r)Ym(θ,ϕ)

と表され、観測に直結する量は確率密度 |ψ|2 である。

一方で、両者は議論の焦点が異なる。量子状態の導出では、量子化条件からエネルギー固有値 En1/n2 を得て、スペクトルやリュードベリ公式へ接続することが中心となる。これに対して電子軌道の導出では、エネルギーの議論を主役にせず、角度成分 Ym が与える空間分布の形と向きに注目し、=0,1,2,3 を s,p,d,f 軌道として整理し、さらに磁気量子数 m=,, が配向(角運動量の z 成分 Lz=m)を区別することを明確にする。

したがって本稿では、同じ ψnm を扱いながらも「エネルギー準位を決める n」ではなく「形と向きを決める (,m)」を主役として、球面調和関数の具体式と線形結合(実軌道)を通じて、s,p,d,f 軌道の構造を段階的に導く。

1. 「電子軌道」とは何を指すか:波動関数と確率密度の立場

ψ(r)=ψ(r,θ,ϕ)

この ψ は電子の位置 r に対する定常状態の波動関数である。ここで r は原点(核)からの距離、θ は極角、ϕ は方位角である。

|ψ(r)|2

これは位置 r に電子が存在する確率密度(単位体積あたりの確率)である。

d3r=r2sinθdrdθdϕ

これは球座標での体積要素であり、確率は |ψ|2d3r で与えられる。

「軌道」という語は古典的な軌跡ではなく、量子力学的に定まる |ψ|2 の空間分布(等確率密度面など)を指すのである。

2. 変数分離の骨格:軌道形状を決めるのは角度成分である

ψ(r,θ,ϕ)=Rn(r)Ym(θ,ϕ)

この式は波動関数の分離形である。Rn(r) は半径方向の広がりを与える動径関数であり、Ym(θ,ϕ) は角度依存(形)を与える関数である。n,,m は量子数である。

0|Rn(r)|2r2dr=1,|Ym(θ,ϕ)|2dΩ=1

ここで dΩ=sinθdθdϕ は立体角要素である。上式はそれぞれ動径と角度の規格化である(全体として |ψ|2d3r=1 となる)。

軌道の「向き」「節(ノード)の配置」「ローブの形」は主に Ym で決まるのである。

3. 角運動量演算子と量子数:m が何を意味するか

L^2Ym=2(+1)Ym

ここで L^2 は軌道角運動量演算子の二乗である。固有値 2(+1) により、角運動量の大きさが量子化されることを表す。=0,1,2, が軌道角運動量量子数である。

L^zYm=mYm

ここで L^z は角運動量の z 成分演算子である。固有値 m が磁気量子数 m を定義する。m=,+1,, である。

|L|=(+1),Lz=m

これは角運動量の大きさと z 成分の許される値を示す関係である。|L| は「向きが決まらない」ため (+1) が現れ、Lz は整数刻みで離散化されるのである。

4. 球面調和関数の基本形:Ym の具体式と記号の意味

Ym(θ,ϕ)=(1)m2+14π(m)!(+m)!Pm(cosθ)eimϕ

この式は複素球面調和関数の標準形である。Pm は陪ルジャンドル関数であり、θ 依存を与える。eimϕϕ 依存を与え、m が「方位角方向の位相巻き数」を決める。前の係数は規格化係数である。

Pm(x)=(1)m(1x2)m/2dmdxmP(x)

これは陪ルジャンドル関数の定義である。P(x) はルジャンドル多項式である。

P(x)=12!ddx(x21)

これはルジャンドル多項式の(ロドリゲスの)定義である。これにより Ym が具体的に計算可能となる。

重要なのは、Ym が「角度のみ」に依存し、m によって節の数と方向性が決まる点である。

5. s,p,d,f の対応: が軌道の種類を決める

=0,1,2,3,

この に対して、軌道の呼称は

  • =0:s 軌道
  • =1:p 軌道
  • =2:d 軌道
  • =3:f 軌道 である(以後も g, h … と続く)。
m=,,(2+1) 個

これは同じ に対して m の取り得る数が (2+1) 個あることを示す。したがって

  • s:1個
  • p:3個
  • d:5個
  • f:7個 の角度状態がある。

表: と軌道数(スピンを除く)

呼称m の個数角度状態数
0s11
1p33
2d55
3f77

6. 節(ノード)で理解する:角度節と動径節

6.1 角度節の数

角度節の数=

これは角度方向(球面上)に現れる節面の数が であることを示す。s(=0)は角度節がなく球対称であり、p(=1)は1枚の節面を持つのである。

6.2 動径節の数

動径節の数=n1

これは r 方向に現れる節(球殻状の節)の数である。n は主量子数であり、同じ でも n が大きいほど動径節が増える。

6.3 全節の見取り図

節の総数=(n1)+=n1

これは水素原子での節の総数が n1 であることを示す。ここで「節」は波動関数が 0 になる場所(面)である。

7. 低次の Ym:s と p の具体式(複素形)

7.1 s 軌道(=0

Y00=14π

これは角度に依存しない球対称な関数である。したがって s 軌道は向きがなく、密度は核を中心に等方的である。

7.2 p 軌道(=1

Y10=34πcosθ

これは z 軸方向に正負のローブを持ち、θ=π/2(赤道面)で 0 になる。よって節面は xy 平面である。

Y1,±1=38πsinθe±iϕ

これは ϕ 方向に位相因子を持つ複素関数であり、確率密度 |Y1,±1|2 は方位角に依存せず sin2θ に比例する。一方で「実在の軌道図形(p_x, p_y)」はこれらの線形結合として作られるのである。

8. 実関数としての軌道:p_x, p_y, p_z の作り方(線形結合)

観測される密度図形としては、複素関数のままより実関数(実球面調和関数)を用いることが多い。以下に代表的な定義を示す。

pzY10

これは z 軸に沿う p 軌道である(節面が xy 平面である)。

px12(Y1,1Y1,1)

これは x 軸に沿う実関数の p 軌道である。右辺は複素球面調和関数の線形結合であり、全体として実関数になる。

py12i(Y1,1+Y1,1)

これは y 軸に沿う実関数の p 軌道である。1/i を掛けて実関数化している。

これらの「」は、規格化係数や位相を省略して「形(角度依存)」だけを示していることを意味する。

9. d 軌道(=2):5つの角度状態と実軌道

9.1 代表的な複素球面調和関数(例)

Y20=516π(3cos2θ1)

これは z 軸周りに回転対称であり、円錐状の節(3cos2θ1=0)を持つ角度関数である。

Y2,±1=158πsinθcosθe±iϕ

これは m=±1 の角度関数である。sinθcosθ により赤道と極方向の中間で強くなる。

Y2,±2=1532πsin2θe±2iϕ

これは m=±2 の角度関数である。e±2iϕ は方位角方向に2回巻いた位相を表す。

9.2 実 d 軌道の基本セット(形の対応)

以下はよく用いられる実 d 軌道の線形結合である(規格化や全体位相は省略する)。

dz2Y20

これは z 軸に沿う2ローブと赤道周りのドーナツ状成分を持つ形である。

dxz12(Y2,1Y2,1),dyz12i(Y2,1+Y2,1)

これらはそれぞれ xz 面、yz 面に関係する4ローブ形状を持つ。

dx2y212(Y2,2+Y2,2),dxy12i(Y2,2Y2,2)

これらは xy 平面内でのローブの向きが異なる2種類の軌道である。dx2y2x,y 軸に沿って伸び、dxyxy の中間方向に伸びる。

表:d 軌道(=2)の実軌道の代表名

実軌道名主な伸びる方向(言葉による説明)
dz2z 軸方向(回転対称)
dxzxz に沿う
dyzyz に沿う
dx2y2xy 軸に沿う
dxyxy の中間方向

10. f 軌道(=3):7つの角度状態と実軌道の考え方

f 軌道は =3 に対応し、m=3,2,1,0,1,2,3 の7状態を持つ。実関数の f 軌道は d と同様に線形結合で作れる。

Y30=716π(5cos3θ3cosθ)

これは z 軸周りの回転対称を持つ角度関数である。節面は多段の円錐状となり、p や d より複雑である。

実 f 軌道としてよく挙げられる名称の一例を示す(規格化省略、角度依存の多項式表現は「実球面調和関数(solid harmonic)」の形として理解するのがよい)。

fz3 (または fz(5z23r2)

これは z 軸方向に強い成分を持つ回転対称型である。

fxz2, fyz2, fxyz, fz(x2y2), fx(x23y2), fy(3x2y2)

これらは x,y,z の組合せでローブが配置される7つの独立な実関数セットの代表名である。ここで r2=x2+y2+z2 であり、「xz2」等は角度依存(方向性)を反映した記号である。

注意として、水素原子のポテンシャルは球対称であるため、どの実 f 軌道を採用するかは「同じ の中での基底の取り方」の問題であり、物理的には任意の直交基底を取り得るのである(外場や結晶場があると基底の選好が生じる)。

11. 動径関数が軌道の「大きさ」と「節(球殻)」を決める:形のもう一つの要素

角度成分が軌道の向きを決める一方、動径成分 Rn(r) が「核からどれだけ広がるか」と「球殻状の節」を決める。

Rn(r)er/(na0)(2rna0)Ln12+1(2rna0)

この式は Rn の形の要点を示す。a0 はボーア半径であり、長さスケールを与える。Lqp は陪ラゲール多項式であり、動径節(n1 個)を作る。

un(r)=rRn(r)

ここで un を導入すると、動径方程式が1次元型になり、規格化も 0|u|2dr=1 の形で扱える。したがって |u(r)|2 は「半径 r に関する確率密度」として理解しやすい。

Pn(r)dr=|Rn(r)|2r2dr=|un(r)|2dr

これは半径が r から r+dr の間にある確率を与える式である。軌道の「見かけの大きさ」は Pn(r) の分布で特徴づけられる。

12. 具体例で見る:1s, 2s, 2p, 3d の違い(エネルギー導出には踏み込まない)

ここでは軌道の形を明確にするため、代表的な波動関数の形(規格化込みの標準形)をいくつか示す。

12.1 1s(n=1,=0,m=0

ψ100(r,θ,ϕ)=1πa03er/a0

これは最も単純な球対称軌道である。角度依存がなく、動径方向に指数減衰する。

12.2 2s(n=2,=0,m=0

ψ200(r,θ,ϕ)=142πa03(2ra0)er/(2a0)

これは球対称であるが、括弧 (2r/a0) により動径節(球殻状の節)が1つ現れる。すなわち r=2a0 で波動関数が 0 になる。

12.3 2p(n=2,=1,m=0 の例)

ψ210(r,θ,ϕ)=142πa03(ra0)er/(2a0)cosθ

これは角度因子 cosθ により xy 平面で節面を持つ。動径因子 (r/a0) により原点で 0 となり、p 軌道が核に対して節を持つ性質(=1 の遠心項の影響)を反映する。

12.4 3d(n=3,=2 の例:角度は Y2m

R32(r)(ra0)2er/(3a0)

これは動径節が n1=0 であり球殻状の節を持たない。一方で角度節が =2 であるため、形は角度方向で複雑になる(d 軌道の5種のいずれかになる)。

13. 磁気量子数 m の物理:外部磁場があると「向きの区別」が実在化する

Lz=m

この式は、量子状態が z 軸方向の角運動量を確定値として持つことを示す。m は「z 軸に対する配向」を特徴づける量子数である。

ΔEmB

外部磁場 Bz 軸方向にかけると、ゼーマン効果により m の違いがエネルギー差として現れる(比例係数は磁気モーメントやスピンも含むため詳細は省略する)。球対称な水素原子でも、外場により m の区別が観測上の分裂として現れるのである。

14. まとめと展望

水素原子の電子軌道は、波動関数の角度成分が球面調和関数 Ym によって厳密に与えられることから体系的に構成できるのである。 が s,p,d,f といった軌道種別と角度節の数を決め、mLz=m により配向(磁気量子数)を決め、動径関数 Rn(r) が広がりと球殻状の節(n1 個)を決めるという分担が明確である。

展望として、球対称ポテンシャルのもとでは同一 内の基底の取り方(実軌道の選び方)は自由度として残るが、外場(磁場・電場)や結晶場が導入されると、その自由度が実験的に意味を持つ形へ固定される。したがって水素原子の軌道導出は、原子軌道の数学的基礎であると同時に、外場応答や固体中の軌道分裂(結晶場理論)へ接続する出発点となるのである。

参考ドキュメント

  1. CODATA Recommended Values(基礎物理定数の推奨値・水素準位理論の整理)
  2. Nature ダイジェスト:陽子半径パズルの状況(日本語解説)
  3. 日本語講義資料:水素原子のシュレーディンガー方程式と解法(大学講義ノート)

その他参考文献・参考情報

  • CODATA推奨値の総説(Rev. Mod. Phys. 論文ページ)
  • CERN News:反水素分光の精密化(プレスリリース形式)
  • CERN Courier:反水素 1S2S 分光の解説
  • Nature Physics:反水素 1S2S の超微細成分観測
  • 日本語資料:素粒子・原子分光(ミューオン関連を含む)
  • 日本語資料:陽子半径に関する国内向け解説(PDF)