選択則とClebsch–Gordan係数
XMCD(X線磁気円二色性)は、円偏光X線が持つ角運動量が電子系の角運動量自由度へどのように結合するかを、吸収強度差として観測する分光である。Clebsch–Gordan(CG)係数は、その結合の許容条件と重み付けを与えるため、XMCDの背骨をなす量である。
参考ドキュメント
- B. T. Thole et al., X-ray circular dichroism as a probe of orbital magnetization, Physical Review Letters 68, 1943 (1992) https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevLett.68.1943
- P. Carra et al., X-ray circular dichroism and local magnetic fields, Physical Review Letters 70, 694 (1993) https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevLett.70.694
- SPring-8 夏の学校 実習資料:軟X線磁気円二色性分光(MCD) ビームライン BL23SU(日本語, PDF) https://www.spring8.or.jp/ext/ja/sp8summer_school/sp8ss2004/sp8ss2004doc/jisshu23su.pdf
1. Clebsch–Gordan係数がXMCDの中心になる理由
XMCDの観測量は、右円偏光と左円偏光での吸収係数の差
である。差が生まれる根源は、円偏光が光子の角運動量射影
この「結合の振幅」を角運動量量子数で体系的に与えるのがCG係数(あるいは等価なWignerの
2. CG係数の定義と意味
2.1 結合基底と直積基底
2つの角運動量
と、結合基底
は同一空間の基底であり、変換係数がCG係数である:
XMCDでは、コア準位でのスピン–軌道結合(
2.2 非ゼロ条件(選択則)
CG係数が非ゼロとなるための条件は、少なくとも次を満たす:
- 射影の保存:
- 三角条件:
- 範囲:
これらが、XMCDで用いる許容遷移の「最小の地図」を与える。
2.3 記号との関係
CG係数は
で結ばれる。XMCDの導出では
3. 具体例: と の合成( コア準位)
であり、結合基底
以下は代表的な展開(規約により位相は変わり得るが、振幅の二乗が与える重み構造は不変である):
の例
の例
この展開が示すのは、同じ
4. CG係数が強度を決める
4.1 吸収の基本式
XASの吸収係数は、双極子相互作用に対する遷移率として
と表される。XMCDは、偏光
4.2 変換:双極子演算子を球面テンソルで書く
双極子演算子は球面テンソルとして
と書ける。円偏光は基本的に
4.3 Wigner–Eckart定理と 記号
角運動量固有状態
である。ここで
- 還元行列要素
は動径積分などの大きさを担う 記号(すなわちCG係数)が角度因子として と の結合強度を与える
したがって、右円偏光と左円偏光の差は、占有数やスピン分極・軌道分極と、CG係数が与える角度因子の組合せとして定量化される。
5. 光子のヘリシティが何を選ぶか
5.1 選択則
球面テンソル
で結ばれる(許容範囲内)。つまり
5.2 ( 端)
遷移金属の軟X線XMCDでは
6. 総和則におけるCG係数の直交性
XMCDの強みは、スペクトルのエネルギー積分が基底状態の角運動量期待値へ結びつく点にある。総和則(sum rules)の成立は、各エッジに含まれる遷移チャネルをCG係数で分解し、終状態の和(あるいはエネルギー積分)を取ったときに、CG係数の直交性によって角度因子が整理されることに基づく。
6.1 軌道角運動量の総和則
比例係数は規格化や定義に依存するが、なぜ
6.2 スピン角運動量の総和則と
スピン成分は
係数
6.3 直交性
CG係数には
のように表される。総和則では、この直交性が「積分で閉じる」理由として働き、観測量が角運動量期待値へ落ちる。
7. CG係数の対応表
| 要素 | 量子数・記号 | XMCDでの役割 | CG係数が現れる場所 |
|---|---|---|---|
| 光子(円偏光) | 角運動量射影の供給 | ||
| コア準位 | |||
| 双極子遷移 | 許容遷移の選別 | ||
| 空孔(終状態の数) | 総和則の比例因子 | 終状態和で直交性が効く | |
| 観測量 | 円偏光差スペクトル |
この表の見通しは、XMCDの元素選択性や
8. 符号・係数の変化
XMCDの式は、文献や装置で符号や定数が変わって見えることがある。主な理由は次である:
- 右円偏光/左円偏光の位相規約の違い(
の対応が入れ替わる場合がある) - 差の定義
の取り方( か か) - 磁化方向と入射方向の幾何(観測されるテンソル成分が変わる)
- 積分範囲や背景除去の流儀の違い(面積の定義差)
これらはCG係数の内容を変えるものではなく、「観測量の定義」と「幾何の翻訳」を変えるものである。翻訳が統一されれば、角運動量代数としての骨格は一貫する。
まとめ
Clebsch–Gordan係数は、XMCDを「吸収差の現象」ではなく「角運動量結合の分光」として理解するための中心道具である。コア準位の
関連研究
- 山崎勝義, Clebsch-Gordan 係数と射影演算子(日本語, PDF) https://www.molsci.jp/wp-content/uploads/AC0002.pdf
- PubMed: Thole (1992) の書誌情報 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/10045260/
- PubMed: Carra (1993) の書誌情報 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/10054179/
- ADS: Thole (1992) のアブストラクト https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1992PhRvL..68.1943T/abstract
- ADS: Carra (1993) のアブストラクト https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1993PhRvL..70..694C/abstract