共鳴軟X線非弾性散乱分光(RIXS)の原理
共鳴軟X線非弾性散乱分光(Resonant Inelastic X-ray Scattering, RIXS)は、元素・軌道を選びながら、電荷・スピン・軌道・格子に由来する励起を、エネルギーと運動量の分解能をもって測る分光である。吸収(XAS)と発光(XES)を二光子過程として統一的に捉え、基底状態から終状態までの遷移を直接スペクトルとして得る点に特徴がある。
12. 参考ドキュメント
- L. J. P. Ament, M. van Veenendaal, T. P. Devereaux, J. P. Hill, J. van den Brink, Resonant inelastic x-ray scattering studies of elementary excitations in condensed matter, Rev. Mod. Phys. 83, 705 (2011). https://www.ifw-dresden.de/uploads/users/59/uploads/publications/RevModPhys.83.705.pdf
- V. N. Strocov et al.,High-resolution soft X-ray beamline ADRESS at the Swiss Light Source for resonant inelastic X-ray scattering and angle-resolved photoelectron spectroscopies, (IUCr, 2010). https://journals.iucr.org/paper?bf5029=
- 野村拓司, 遷移金属化合物における共鳴非弾性X線散乱の理論, 放射光 20, 171 (2013). https://www.jssrr.jp/journal/pdf/20/p171.pdf
1. RIXSとは何か:吸収・発光・非弾性散乱
RIXSは、入射X線(光子)を吸収して内殻電子を励起し、その後にX線を放射しながら緩和する過程において、系に残る励起(終状態)をエネルギー損失として読み出す手法である。観測するのは「出てきた光子」なので、原理的には高真空下の表面に限られない。軟X線領域では、遷移金属L端(2p→3d)、酸素K端(1s→2p)などが代表的であり、価電子状態と強く結びついた共鳴条件を利用できる。
散乱の基本量は次で定義される。
- エネルギー移行(エネルギー損失)
- 運動量移行
ここで
2. 二光子過程:共鳴の物理
RIXSは「吸収 → 中間状態 → 放射」の二段階に見えるが、量子力学的には二光子散乱過程として一体に記述される。共鳴条件(吸収端近傍)に合わせることで散乱振幅が大きく増強され、特定の元素・化学状態・局所対称性に対して感度が立つ。結果として以下が同時に成立しやすい。
- 元素選択性:吸収端を選ぶことで内殻準位が指定される
- 軌道選択性:双極子遷移で関与する価電子軌道の対称性が強く反映される
- 多自由度励起への感度:電荷・軌道・スピン・格子に由来する励起が同一測定で現れうる
軟X線RIXSでは、特に遷移金属L端で中間状態に強いスピン軌道相互作用(2pのSOC)が存在し、スピン反転励起(単マグノンなど)が許容されやすい点が重要である。一方、K端(1s→p)を用いる硬X線RIXSでは、1sにSOCがないためスピン反転は一般に弱く、電荷励起や格子励起が中心となりやすい。
3. 散乱断面の基本式:Kramers–Heisenberg形式
RIXS強度は、Kramers–Heisenberg(クレーマーズ–ハイゼンベルグ)式で表される。状態
で与えられる。ここで
この式が示す本質は次である。
- 分母が共鳴増幅を与える(吸収端近傍で大きい)
- 分子が選択則と局所対称性を規定する(偏光・幾何で変わる)
- 終状態和
が「どの励起が作られたか」をスペクトルとして可視化する
理論的には、適切な近似の下でRIXSが動的相関関数(電荷密度相関、スピン相関など)と関係づけられることが多い。すなわち、RIXSは「何らかの有効演算子
4. 偏光・散乱幾何・選択則
4.1 双極子遷移と偏光ベクトル
軟X線領域の多くは電気双極子遷移で支配され、光の偏光
4.2 中間状態の内殻SOCとスピン反転
L端(2p→3d)では中間状態に強いSOCがあり、スピン自由度と軌道自由度が混ざる。これによりスピン反転を含む励起(単マグノンなど)が観測可能となり、磁気相互作用やスピン秩序の議論につながる。一方K端ではこの経路が弱まり、磁気励起の観測は条件が厳しくなることが多い。
4.3 運動量移行の到達範囲(軟X線の現実的スケール)
光子波数の大きさは
5. スペクトルの基本構造
RIXSスペクトル(横軸:エネルギー損失
- 弾性線(elastic line)
基底状態へ戻る散乱であり、装置分解能関数の確認やエネルギー較正の基準にもなる。 - dd励起(局所結晶場励起) 遷移金属3d準位の結晶場分裂に対応する励起であり、数百meV〜数eVの領域に現れることが多い。
- 電荷移動励起・励起子 価電子帯と空準位、あるいは配位子pと金属dの間の励起などが含まれる。
- 磁気励起(単マグノン、二マグノンなど) L端RIXSの重要な対象であり、運動量依存から交換相互作用や異方性の議論へつながる。
- 格子励起(フォノン) 近年の高分解能化により、数十meVスケールのフォノンがRIXSで明瞭に見える例が増えている。
- 蛍光的連続成分(fluorescence-like) 入射エネルギーに追随する発光成分が背景的に現れ、共鳴ラマン型の励起と区別して解釈する必要がある。
ここで重要なのは、RIXSがしばしば「入射エネルギー依存」を強く持つ点である。入射エネルギーを走査し、
6. 分解能:単色化と分光器の合成
観測される総エネルギー分解能
ここで
7. 測定配置と応答:散乱強度が変わる理由
RIXS強度は、試料の光吸収係数、出射光の再吸収、散乱幾何(入射角・散乱角)、偏光、試料の向き(結晶軸)などに依存する。特に軟X線では吸収が強く、試料形状や角度によって自己吸収(self-absorption)に類する効果が無視できない場合がある。バルク情報という言い方は成立する一方で、見えている深さは光子エネルギーと入射角・検出角により変わるため、「どの深さ」「どの領域の平均」を見ているかの理解が強度解析に影響する。
また、温度・磁場・電場・ガス雰囲気・液体環境など、試料環境を変えながらRIXSを行う要求が増えており、環境セルや窓材、幾何の制約と分解能の関係が重要になる。軟X線で環境条件を扱うには、真空窓や薄膜窓、差動排気などの工学的要素と、スペクトルの線形・背景成分の制御が密接に絡む。
8. 理論モデルによる解釈
RIXSの式は本質的に多体問題であり、物質の種類によって適切なモデルが変わる。代表的には次が用いられる。
- 多重項理論(multiplet)・配位子場理論 局所電子状態(結晶場、Hund結合、SOC)を明示し、dd励起やスピン状態の議論に適する。
- クラスター模型(configuration interaction) 金属dと配位子pの混成、電荷移動、終状態遮蔽などを含み、酸化物・触媒系で頻用される。
- 強相関模型(Hubbard, t-J, Kitaevなど)+数値対角化 低エネルギーの磁気励起や励起子の分散を物理的に議論する際に用いられる。
- 第一原理+多体補正(DFT+DMFTなど) バンドと局所相関を統合し、広いエネルギー帯域を整合的に扱う方向で発展している。
RIXS解析では「ピークの同定」だけでなく、(i) 運動量依存、(ii) 偏光依存、(iii) 入射エネルギー依存(2Dマップ)を揃えることで、励起の性格(スピン的か、電荷的か、局所的か、遍歴的か)を分離していく流儀が強い。
9. 他手法との比較
| 手法 | 観測する量(代表) | 元素・軌道選択性 | 運動量分解 | エネルギースケール | 代表的な強み | 代表的な限界 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 軟X線RIXS | 終状態励起のスペクトル( | 高い(吸収端) | 可能(ただし到達範囲に制約) | 数10 meV〜数eV | 磁気・軌道・格子を同一枠組みで扱える | 断面・背景・自己吸収の影響が幾何に敏感 |
| XAS | 吸収係数 | 高い | 基本はなし | eVスケール中心 | 状態密度・局所構造・化学状態の指標 | 励起の分散や終状態選別は直接ではない |
| XES(非共鳴) | 発光スペクトル | 中程度 | 基本はなし | eV | 占有状態・化学状態の情報 | 励起(終状態)選別が弱い |
| IXS(非共鳴) | 動的構造因子 | 低い | 高い | meV(格子励起)〜eV | フォノン分散に強い(高分解能) | 元素選択性は弱い |
| EELS | エネルギー損失 | 条件依存 | 可能 | meV〜eV | 空間分解能・局所性 | 厚み・多重散乱など試料条件に制約 |
| 中性子非弾性散乱 | 磁気・格子の励起分散 | 元素選択ではない | 高い | meV中心 | 磁気励起・フォノン分散の標準手法 | 必要試料量が大きい場合がある |
この表の要点は、RIXSが「元素・軌道選択性を保ったまま、エネルギー損失と運動量依存を同時に追える」点にあることである。特に微小結晶・薄膜・ヘテロ構造など、試料量が限られがちな系で優位性が出る場面が多い。
10. 軟X線RIXSの設計
軟X線RIXSは近年、分解能と測定効率の両面で大きく進展している。代表例として、可変偏光アンジュレータ、コリメート光学系の平面回折格子モノクロメータ、試料上の微小スポット、回折格子分光器の長尺化や収差補正が統合される。高分解能化はフォノン・低エネルギー磁気励起の観測を現実にし、高効率化は入射エネルギー走査や角度走査(運動量走査)をより現実的にする。
さらに、入射エネルギー軸と発光エネルギー軸を同時に二次元で取得する2D-RIXS分光器の実装は、共鳴条件の探索とデータ取得の形を変えつつある。入射エネルギーを位置で分解し、散乱光を別軸で分光することで、複数のRIXSスペクトルを一度に測る構想である。
11. 国内外のビームライン動向
- 欧州の高分解能軟X線ビームラインでは、300–1600 eV級のエネルギー範囲、
が 〜 台後半の単色化、回折格子分光器によるRIXS終端が整備され、相関電子系の励起分散測定が定着している。 - 日本の高輝度軟X線ビームラインでも、RIXS(あるいは軟X線発光分光としてのRIXS)を高分解能で行い、ガス・液体・固体など多様な環境条件で測るための終端整備が進められている。
- 次世代放射光施設では、超高分解能化と2D-RIXSによる高効率化を同時に狙うビームライン計画が公開情報として議論されている。
ここでの重要点は、RIXSが「高分解能(低エネルギー励起の可視化)」と「高効率(多次元パラメータ走査の現実化)」の両輪で進化していることである。
まとめ
RIXSは、吸収端近傍の共鳴を利用することで、元素・軌道を選択しつつ、電荷・スピン・軌道・格子に由来する励起をエネルギー損失スペクトルとして得る手法である。Kramers–Heisenberg式が示すように、中間状態の共鳴増幅と選択則が「何が見えるか」を規定し、偏光・運動量・入射エネルギー依存を組み合わせることで、複合自由度が絡む物性の起源に踏み込める分光基盤となるのである。
関連研究
次世代放射光施設利用研究検討委員会 WG 報告書:超高エネルギー分解能共鳴非弾性軟X線散乱(量子科学技術研究開発機構, PDF) https://www.qst.go.jp/uploaded/attachment/16920.pdf
SPring-8 BL07LSU(HORNET:高分解能軟X線発光/RIXSに関する記述を含む, PDF) https://sor.issp.u-tokyo.ac.jp/ar/2022/staff/Beamline2022.pdf
NanoTerasu ユーザー向け公開資料:軟X線超高分解能共鳴非弾性散乱ビームライン/2D-RIXS分光器(2025年9月時点の資料, PDF) https://user.nanoterasu.jp/wp-content/uploads/2025/10/02u_ppt_2026A.pdf
林久史, 高感度・高分解能「共鳴X線非弾性散乱」測定による新しい「X線吸収」分光(PFセミナー資料, PDF) https://pfwww.kek.jp/pf-seminar/ixs_abst/hayashi.pdf
共鳴非弾性軟X線散乱による機能性材料の電子状態研究(日本語解説, PDF) https://seisan.server-shared.com/741/741-18.pdf