Skip to content

ブラケット記法の体系

ブラケット記法は、量子状態や結晶方位を簡潔に表すための「括弧の使い分け」の総称として現場で広く使われる。角括弧・丸括弧・角括弧(山括弧)・波括弧・角括弧(bracket)の役割を整理すると、式の意味を誤らずに物理量へ接続できるようになる。

参考ドキュメント

0. 用語の整理:同じ「ブラケット」でも文脈が2つある

「ブラケット記法」という語は、分野の文脈により主に次の2系統を指す。

  • 量子論・線形代数:Dirac のブラ・ケット(bra-ket)記法
    • 例:状態 |ψ、双対ベクトル ϕ|、内積 ϕ|ψ
  • 結晶学・材料組織:面と方向の括弧表記(Miller 指数を含む)
    • 例:面 (hkl)、方向 [uvw]、等価族 {hkl}uvw、集合組織 {hkl}uvw

本稿では、まず Dirac 記法を線形代数として定式化し、その後に結晶学の括弧表記を整理し、最後に混同しやすい点をまとめる。

1. Dirac(ブラ・ケット)記法

1.1 状態は「ベクトル」であり、表示は「基底の取り方」で変わる

量子状態はヒルベルト空間 H のベクトルとして表される。状態の本体は |ψ であり、座標表示(波動関数)ψ(x) は基底 |x を選んだときの成分にすぎない。

ψ(x)=x|ψ

固体物理では、座標基底だけでなく、Bloch 基底、原子軌道基底、Wannier 基底など複数の基底が日常的に現れるため、「状態そのもの」と「表示」を区別できる Dirac 記法は特に相性がよい。

1.2 ket と bra:双対空間と随伴

ket は H のベクトル、bra は双対空間 H(厳密には共役双対) の線形汎関数である。ket |ψ に対応する bra は随伴(共役転置)で

|ψ  ψ|,ψ|=(|ψ)

と書かれる。有限次元で基底を固定すれば、ket は列ベクトル、bra は行ベクトルとして具体化される。

1.3 内積と正規化:ϕ|ψ の意味

内積は bra が ket に作用した複素数である。

ϕ|ψC

量子力学の慣習として、内積は一般に ket 側に線形、bra 側に共役線形で扱われる(数学の流儀と逆になる場合がある)。この選択により

ϕ|ψ=ψ|ϕ,ψ|ψ0

が自然に実装される。正規化は

ψ|ψ=1

である。固体計算では、規格化は波動関数の比較や投影、DOS・PDOS の定義、Wannier 化の安定性などに直結する。

1.4 直交基底と完全性:恒等演算子

固有状態や基底 {|n} が直交規格化されているとき、

m|n=δmn

である。さらに完全性(完備性)は恒等演算子 I^ の分解として

n|nn|=I^

と書ける。連続基底 |x の場合は

|xx|dx=I^,x|x=δ(xx)

となり、デルタ関数が「連続基底の直交性」を支える。

1.5 演算子:測定量・ハミルトニアン・期待値

物理量は演算子 A^ として表される。期待値は

A^ψ=ψ|A^|ψ

である。固体物理で頻出する具体例を挙げる。

  • 固有値問題(バンド計算の骨格)
H^|nk=εnk|nk
  • 射影(局在軌道や原子成分への分解、PDOS の考え方)
P^α=|αα|,wα=ψ|P^α|ψ=|α|ψ|2
  • 交換・反交換(スピン、量子輸送、第二量子化で頻出)
[A^,B^]=A^B^B^A^,{A^,B^}=A^B^+B^A^

ここで角括弧 は期待値の意味にも使われるため、「ϕ|ψ(内積)」と「A^(期待値)」を式の形で見分ける必要がある。

1.6 行列要素:i|A^|j は「基底で見た成分」

基底 {|i} における演算子の成分は

Aij=i|A^|j

である。したがって、固体電子論でしばしば現れる

  • 軌道間 SOC 行列要素(例:dxy|L^z|dyz
  • タイトバインディングのホッピング(例:tij=i|H^|j
  • Green 関数成分(例:Gij(E)=i|(E+iηH^)1|j

はいずれも「基底で見た成分」という同じ意味を共有する。記号が変わっても、Dirac 記法は線形代数として統一される。

1.7 状態記法の基本

固体での代表例をまとめる。

  • Bloch 状態
|nk,nk|mk=δnmδkk
  • 位置基底と局在基底(原子軌道・Wannier)
|r,|Rα,r|Rα=wα(rR)
  • 期待値・射影は同じ形で書ける
ψ|A^|ψ,ψ|P^α|ψ

この統一性により、第一原理計算の出力(波動関数、射影、行列要素)と、モデル(TB、スピン模型、応答理論)を同じ言語で接続できる。

1.8 誤りやすい点

  1. ϕ|ψ の複素共役を落とす
    ψ|ϕ は一般に ϕ|ψ と等しくなく、ψ|ϕ=ϕ|ψ である。

  2. 内積の「線形側」の流儀を混同する
    文献により、どちらの引数が線形かの約束が異なる。記号の変換だけでなく、共役の位置で齟齬が出る。

  3. x|ψ を「ただの記号」とみなして演算の意味を失う
    x| は汎関数であり、x|ψ は成分である。|xx|dx=I^ と合わせて理解すると破綻しにくい。


2. 結晶学の括弧表記

2.1 なぜ括弧が必要か

結晶では、同じ数字列でも「面」と「方向」で意味が変わる。そこで括弧の種類で区別する。

記法意味説明
(hkl)特定の結晶面(格子面)(111)1枚の面(厳密にはその面に平行な面の集合として扱うことが多い)
{hkl}等価な面の族{111}対称操作で移り合う面の集合
[uvw]特定の結晶方向[110]格子ベクトル R=ua+vb+wc の方向
uvw等価な方向の族110対称性で等価な方向の集合

この括弧表記は、回折指数、すべり系、集合組織、界面方位関係など多くの議論の土台である。

2.2 方向 [uvw] と面 (hkl) の幾何学

面指数 (hkl) は、逆格子ベクトル

Ghkl=hb1+kb2+lb3

に対応し、面の法線方向を表す(一般の結晶系で重要である)。回折条件は Bragg の式

2dsinθ=nλ

で与えられ、面間隔 d は結晶系と (hkl) に依存して決まる。立方晶では

dhkl=ah2+k2+l2

がよく用いられる。

一方、方向指数 [uvw] は実格子ベクトル方向であり、長さや直交性は格子定数と結晶系に依存する。立方晶では扱いが単純になり、

  • (hkl) の法線は [hkl] と平行
  • 指数の入れ替え・符号反転が対称性で等価になりやすい

という性質が成立する。しかし、一般の結晶系では (hkl)[hkl] を同一視すると誤りになる。

2.3 等価族の意味:{hkl}uvw

等価族は「対称性で見分けられない対象の集合」である。たとえば立方晶で {100}(100),(010),(001) などを含む。方向も同様に 111[111],[1¯11],[11¯1], をまとめた表記である。

この族表記は以下の場面で効く。

  • すべり系:面の族 {hkl} と方向の族 uvw の組で記す
    例:FCC の基本として {111}110、BCC の基本として {110}111 など
  • 集合組織(texture):板面と圧延方向を同時に指定する
    例:{hkl}uvw の形で「面が材料法線に、方向が圧延方向に揃う」ような表現が現れる

2.4 六方晶の4指数表記:(hkil)[uvtw]

六方晶系では、対称性を反映して4指数で表す流儀が広く使われる。面指数は

(hkil),i=(h+k)

方向指数は

[uvtw],t=(u+v)

の制約を満たす。3指数に無理に押し込めるよりも、対称性と等価性が見通しよくなる。

2.5 誤りやすい点

  1. (hkl)[hkl] の同一視
    立方晶では見かけ上一致しやすいが、一般には別概念である。

  2. {hkl}(hkl) の混同
    前者は族、後者は1つの面である。すべり系や集合組織では族が本体になることが多い。

  3. 指数の「最小整数」の約束を忘れる
    [222][111] は同一直線方向であるが、通常は最小整数比で表す。

3. 2種類の「ブラケット」を混同しないための対応表

文脈代表記号対象基本の意味
Dirac 記法$\psi\rangle,\ \langle\phi$
Dirac 記法$\langle\phi\psi\rangle$内積
Dirac 記法$\langle\psi\hat\psi\rangle$
結晶学(hkl), {hkl}面(族)格子面・等価面
結晶学[uvw], uvw方向(族)格子方向・等価方向

重要なのは、角括弧   が「量子の内積・期待値」にも、「結晶方向の族」にも使われる点である。角括弧だけを見て意味を決めず、周囲の記号(|  があるか、指数が整数列だけか、演算子 A^ が挟まるか)で判断するのがよい。

関連研究

  1. Bra–ket notation(英語) https://en.wikipedia.org/wiki/Bra–ket_notation
  2. Miller index(英語) https://en.wikipedia.org/wiki/Miller_index
  3. Slip (materials science)(英語) https://en.wikipedia.org/wiki/Slip_(materials_science)

まとめ

ブラケット記法は、量子論では「状態・双対・内積・演算子」を線形代数として統一的に扱う言語であり、固体のバンド・射影・行列要素・応答理論まで同じ形で書ける強みをもつ。一方、結晶学では括弧の種類で「面・方向・等価族」を峻別し、回折や塑性、集合組織の議論を破綻なく進めるための表記体系である。両者は同じ括弧を用いても対象が異なるため、|  の有無、指数の形、演算子の挿入の有無で意味を見分けるのが要点である。