ブラケット記法の体系
ブラケット記法は、量子状態や結晶方位を簡潔に表すための「括弧の使い分け」の総称として現場で広く使われる。角括弧・丸括弧・角括弧(山括弧)・波括弧・角括弧(bracket)の役割を整理すると、式の意味を誤らずに物理量へ接続できるようになる。
参考ドキュメント
- ブラ-ケット記法(日本語) https://ja.wikipedia.org/wiki/ブラ-ケット記法
- 結晶の面と方向の記述方法(日本語) https://ceram.material.tohoku.ac.jp/~takamura/class/crystal/node11.html
- Lattice Planes and Miller Indices(英語) https://www.doitpoms.ac.uk/tlplib/miller_indices/printall.php
0. 用語の整理:同じ「ブラケット」でも文脈が2つある
「ブラケット記法」という語は、分野の文脈により主に次の2系統を指す。
- 量子論・線形代数:Dirac のブラ・ケット(bra-ket)記法
- 例:状態
、双対ベクトル 、内積
- 例:状態
- 結晶学・材料組織:面と方向の括弧表記(Miller 指数を含む)
- 例:面
、方向 、等価族 、 、集合組織
- 例:面
本稿では、まず Dirac 記法を線形代数として定式化し、その後に結晶学の括弧表記を整理し、最後に混同しやすい点をまとめる。
1. Dirac(ブラ・ケット)記法
1.1 状態は「ベクトル」であり、表示は「基底の取り方」で変わる
量子状態はヒルベルト空間
固体物理では、座標基底だけでなく、Bloch 基底、原子軌道基底、Wannier 基底など複数の基底が日常的に現れるため、「状態そのもの」と「表示」を区別できる Dirac 記法は特に相性がよい。
1.2 ket と bra:双対空間と随伴
ket は
と書かれる。有限次元で基底を固定すれば、ket は列ベクトル、bra は行ベクトルとして具体化される。
1.3 内積と正規化: の意味
内積は bra が ket に作用した複素数である。
量子力学の慣習として、内積は一般に ket 側に線形、bra 側に共役線形で扱われる(数学の流儀と逆になる場合がある)。この選択により
が自然に実装される。正規化は
である。固体計算では、規格化は波動関数の比較や投影、DOS・PDOS の定義、Wannier 化の安定性などに直結する。
1.4 直交基底と完全性:恒等演算子
固有状態や基底
である。さらに完全性(完備性)は恒等演算子
と書ける。連続基底
となり、デルタ関数が「連続基底の直交性」を支える。
1.5 演算子:測定量・ハミルトニアン・期待値
物理量は演算子
である。固体物理で頻出する具体例を挙げる。
- 固有値問題(バンド計算の骨格)
- 射影(局在軌道や原子成分への分解、PDOS の考え方)
- 交換・反交換(スピン、量子輸送、第二量子化で頻出)
ここで角括弧
1.6 行列要素: は「基底で見た成分」
基底
である。したがって、固体電子論でしばしば現れる
- 軌道間 SOC 行列要素(例:
) - タイトバインディングのホッピング(例:
) - Green 関数成分(例:
)
はいずれも「基底で見た成分」という同じ意味を共有する。記号が変わっても、Dirac 記法は線形代数として統一される。
1.7 状態記法の基本
固体での代表例をまとめる。
- Bloch 状態
- 位置基底と局在基底(原子軌道・Wannier)
- 期待値・射影は同じ形で書ける
この統一性により、第一原理計算の出力(波動関数、射影、行列要素)と、モデル(TB、スピン模型、応答理論)を同じ言語で接続できる。
1.8 誤りやすい点
の複素共役を落とす は一般に と等しくなく、 である。 内積の「線形側」の流儀を混同する
文献により、どちらの引数が線形かの約束が異なる。記号の変換だけでなく、共役の位置で齟齬が出る。を「ただの記号」とみなして演算の意味を失う は汎関数であり、 は成分である。 と合わせて理解すると破綻しにくい。
2. 結晶学の括弧表記
2.1 なぜ括弧が必要か
結晶では、同じ数字列でも「面」と「方向」で意味が変わる。そこで括弧の種類で区別する。
| 記法 | 意味 | 例 | 説明 |
|---|---|---|---|
| 特定の結晶面(格子面) | 1枚の面(厳密にはその面に平行な面の集合として扱うことが多い) | ||
| 等価な面の族 | 対称操作で移り合う面の集合 | ||
| 特定の結晶方向 | 格子ベクトル | ||
| 等価な方向の族 | 対称性で等価な方向の集合 |
この括弧表記は、回折指数、すべり系、集合組織、界面方位関係など多くの議論の土台である。
2.2 方向 と面 の幾何学
面指数
に対応し、面の法線方向を表す(一般の結晶系で重要である)。回折条件は Bragg の式
で与えられ、面間隔
がよく用いられる。
一方、方向指数
の法線は と平行 - 指数の入れ替え・符号反転が対称性で等価になりやすい
という性質が成立する。しかし、一般の結晶系では
2.3 等価族の意味: と
等価族は「対称性で見分けられない対象の集合」である。たとえば立方晶で
この族表記は以下の場面で効く。
- すべり系:面の族
と方向の族 の組で記す
例:FCC の基本として、BCC の基本として など - 集合組織(texture):板面と圧延方向を同時に指定する
例:の形で「面が材料法線に、方向が圧延方向に揃う」ような表現が現れる
2.4 六方晶の4指数表記: と
六方晶系では、対称性を反映して4指数で表す流儀が広く使われる。面指数は
方向指数は
の制約を満たす。3指数に無理に押し込めるよりも、対称性と等価性が見通しよくなる。
2.5 誤りやすい点
と の同一視
立方晶では見かけ上一致しやすいが、一般には別概念である。と の混同
前者は族、後者は1つの面である。すべり系や集合組織では族が本体になることが多い。指数の「最小整数」の約束を忘れる
と は同一直線方向であるが、通常は最小整数比で表す。
3. 2種類の「ブラケット」を混同しないための対応表
| 文脈 | 代表記号 | 対象 | 基本の意味 |
|---|---|---|---|
| Dirac 記法 | $ | \psi\rangle,\ \langle\phi | $ |
| Dirac 記法 | $\langle\phi | \psi\rangle$ | 内積 |
| Dirac 記法 | $\langle\psi | \hat | \psi\rangle$ |
| 結晶学 | 面(族) | 格子面・等価面 | |
| 結晶学 | 方向(族) | 格子方向・等価方向 |
重要なのは、角括弧
関連研究
- Bra–ket notation(英語) https://en.wikipedia.org/wiki/Bra–ket_notation
- Miller index(英語) https://en.wikipedia.org/wiki/Miller_index
- Slip (materials science)(英語) https://en.wikipedia.org/wiki/Slip_(materials_science)
まとめ
ブラケット記法は、量子論では「状態・双対・内積・演算子」を線形代数として統一的に扱う言語であり、固体のバンド・射影・行列要素・応答理論まで同じ形で書ける強みをもつ。一方、結晶学では括弧の種類で「面・方向・等価族」を峻別し、回折や塑性、集合組織の議論を破綻なく進めるための表記体系である。両者は同じ括弧を用いても対象が異なるため、