中性子ビームの基本
中性子ビームは、原子核および磁気モーメントと相互作用する量子波として物質を透過し、結晶構造・ナノ組織・磁性・格子ダイナミクスを一つの散乱理論で記述できる計測手段である。特に同位体と軽元素、ならびに磁気秩序への感度は、X線や電子線と相補的な情報を与える。
参考ドキュメント
- ORNL, How SNS Works(スパレーション中性子源の生成・減速・ビーム輸送の概説) https://neutrons.ornl.gov/content/how-sns-works
- J-PARC MLF, Neutron source system(中性子源システム:標的・モデレータ・反射体) https://mlfinfo.jp/en/facility/sources.html
- 柴山充弘, 中性子小角散乱(SANS)によるナノ構造解析の基礎(日本語, J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/article/radioisotopes/59/6/59_6_395/_article/-char/ja/
1. 中性子の量子波としての性質
中性子は電荷を持たないスピン1/2粒子であり、外部電場により大きく曲げられにくく、物質中では主に原子核との相互作用(核散乱)と、磁気モーメントによる相互作用(磁気散乱)で情報を得る。電荷を持たないことは、厚い試料・容器越しでも内部情報を取り出せる可能性に直結する。
1.1 ド・ブロイ波長とエネルギー
中性子を非相対論的粒子として扱うと、運動量
で結ばれる。ここで
となる。材料研究で中心となる熱中性子・冷中性子は、Å〜nmの波長領域と meV 程度のエネルギー領域を占め、原子配列(Å)からナノ構造(nm)、さらにフォノンやマグノンの励起(meV〜100 meV程度)へ自然に整合する。
1.2 スピンと磁気モーメント
中性子はスピン角運動量
2. 中性子ビームの生成:研究炉とスパレーション
材料研究に供される中性子は、研究炉(連続)または加速器スパレーション(パルス)で生成される。両者は時間構造と装置設計が異なり、測定法の実現形態にも差が生じる。
2.1 研究炉(連続ビーム)
研究炉では核分裂反応で中性子が連続的に生成され、減速材・冷中性子源・中性子導管(ガイド)により、実験ホールへ取り出される。日本では JRR-3 が代表的であり、ビーム実験装置群が運用されている。連続ビームは、回折や三軸分光など、単色化(モノクロメータ)と角度走査の組を基礎に発展した装置構成と相性がよい。
2.2 スパレーション(パルス中性子源)
スパレーションでは、高エネルギー陽子を重金属標的(例:Hg)に入射し、多数の高速中性子を発生させる。高速中性子はモデレータで熱・冷領域に減速され、ガイドにより各ビームラインへ輸送される。パルス構造により、飛行時間(TOF)から波長・エネルギーを割り当てられる点が要である。
日本では J-PARC MLF がパルススパレーション中性子源を備え、複数の中性子ビームラインと装置群が整備されている。例えば BL20 iMATERIA は粉末回折の高効率測定を志向した装置として設計されている。
2.3 減速(モデレータ)とビーム輸送
生成時の中性子は高速であるため、減速材で散乱を繰り返して熱化させる。冷中性子を得るためには低温モデレータが必要となり、波長分布・パルス幅・強度はモデレータ設計に強く依存する。ビーム輸送では、ガイド管(全反射を利用した輸送)、コリメータ、チョッパ(時間窓の整形)、モノクロメータ(単色化)、偏極子(スピン選別)などの要素が組み合わさる。
3. 中性子散乱の基礎:散乱長と断面積
中性子散乱で中心となる概念は、原子核に対する散乱長
であり、全散乱断面積は
となる。
3.1 干渉性散乱と非干渉性散乱
実試料では、同位体混在や核スピン状態により
干渉性成分は回折ピークや構造因子に結びつき、非干渉性成分は背景や局所運動(拡散や回転)に強く現れる。
3.2 同位体・軽元素への感度とコントラスト
核散乱長は原子番号 Z に単調ではなく、同位体でも大きく変わる場合がある。この性質により、軽元素(H, Li, B など)や同位体置換(典型例として H/D 置換)で散乱コントラストを設計できる。これは、高分子・溶液・水素吸蔵材料・電池材料などの構造解析で強い武器となる。
3.3 吸収と透過:減衰係数の考え方
中性子は透過能が高い一方、核種によっては吸収が大きい。透過はビール・ランベルト型に
と表せる。ここで
4. 散乱の運動学: と
観測量は運動量移行 $Q とエネルギー移行
である。
4.1 弾性散乱と回折:Bragg 条件
弾性散乱では
であり、
4.2 非弾性散乱:動的構造因子
非弾性散乱ではエネルギー交換が起き、二重微分断面積は
と書かれる。
4.3 TOF(飛行時間)での波長割り当て
パルス中性子源では、飛行距離
となる。したがって検出器時系列は波長スペクトルとして読み替えられる。パルス幅、チョッパ窓、検出器時間分解能がエネルギー分解能に直結する。
5. 代表的測定法と得られる情報
中性子計測は、構造(弾性)と励起(非弾性)を軸に多数の派生法を持つ。以下では基本的分類で整理する。
| 手法 | 主観測量 | 主スケール | 得られる情報 |
|---|---|---|---|
| 粉末回折 | Å | 結晶構造、原子位置、占有率、熱振動、磁気回折 | |
| 単結晶回折 | Å | 対称性、変調構造、磁気構造、散漫散乱 | |
| 小角散乱(SANS) | nm〜100 nm | ナノ析出、孔、クラスタ、相分離、相関長 | |
| 反射率 | nm(深さ) | 薄膜・多層膜の深さプロファイル、界面粗さ | |
| 非弾性散乱 | Å〜nm, ps〜ns | フォノン・マグノン分散、励起寿命、相互作用 | |
| スピンエコー | 中間散乱関数 | nm, ns〜μs | 緩慢ダイナミクス、粘弾性、磁気ゆらぎ |
| イメージング | 透過像・位相像 | μm〜mm | 内部欠陥、水素分布、流動、磁場の可視化(条件依存) |
5.1 SANS の基本式:形状因子と相関
SANS では小さな
である。ここで
5.2 反射率:深さ方向の散乱長密度
薄膜・多層膜では、入射角と鏡面反射強度から深さ方向の散乱長密度(SLD)プロファイルを推定する。臨界角は平均SLDに依存し、界面粗さは反射率の高Q_{z}側の減衰に現れる。磁性薄膜では偏極中性子反射率により、核SLDと磁気SLDを分離できる。
5.3 非弾性散乱:フォノンとマグノン
フォノンは原子核散乱を通じて、マグノンは磁気散乱を通じて観測される。測定される分散関係
5.4 中性子イメージング:透過・位相・共鳴
透過像は
6. 磁性と中性子:磁気散乱の要点
磁気散乱は中性子磁気モーメントと電子スピン密度の相互作用に由来し、磁気モーメントの空間配置とその相関を観測する。磁気回折は磁気秩序の周期性を、非弾性磁気散乱はスピン励起の分散と寿命を与える。
磁気散乱強度は一般に磁気形状因子
7. X線・電子線との相補性
中性子は「核」「磁性」「透過」の観点で独自性を持つ一方、空間分解能や測定時間、試料量の要請などで他手法と補完関係にある。
| 観点 | 中性子 | X線 | 電子線 |
|---|---|---|---|
| 相互作用 | 原子核・磁気モーメント | 電子密度 | クーロン相互作用(強い) |
| 軽元素・同位体 | 強い利点がある | 弱い場合が多い | 条件により可能だが厚試料は難しい |
| 透過能 | 高いことが多い | 中程度 | 低い(薄膜・薄片が基本) |
| 磁性 | 直接感度がある | 共鳴条件などが必要 | ローレンツ法などだが条件が異なる |
| 時間構造 | 連続/パルスいずれも可能 | 連続/パルス(放射光) | 連続が中心 |
| 代表的強み | バルク内部、磁気、H関連 | 高輝度、局所構造、微小試料 | 原子像、局所欠陥、ナノ領域 |
8. 試料環境と測定成立に関わる要素
中性子はバルク内部を観る長所を持つため、試料環境(温度、磁場、圧力、電場、雰囲気)と組み合わせやすい。低温(冷凍機・希釈冷凍機)、強磁場(超伝導磁石)、高圧(パリ・エジンバラプレス、DACの変種)、その場反応セル(電池、触媒、吸蔵)などが広く用いられる。
一方で、吸収の大きい元素の混入、
検出器は計数効率と位置分解能、時間分解能のバランスで設計される。3He比例計数管に加え、10B や 6Li を用いた代替検出器(Bコート検出器、Li含有シンチレータなど)も広く検討・実装されてきた経緯がある。
9. 国内外の主要施設
国内外で中性子源は大型共用基盤として整備され、材料物性、化学、工学、生体分野まで広く利用されている。
9.1 国内:J-PARC MLF(加速器スパレーション)
J-PARC MLF は中性子ビームライン群を持ち、粉末回折、非弾性散乱、小角散乱、イメージングなど多様な装置が配置されている。iMATERIA(BL20)は粉末中性子回折を核とし、電池材料など無機材料の構造解析にも用いられている。
MLFではビームライン配置図や装置一覧が公開されており、装置ごとに対象波長、分解能、試料環境、解析支援が異なる。
9.2 国内:JRR-3(研究炉)
JRR-3 は研究炉として中性子ビーム実験装置群を持ち、ガイドホールと炉室に装置が配置される。ユーザオフィスの情報から装置一覧へ到達でき、装置種別(回折、散乱、分光など)の構成が把握できる。
9.3 海外:SNS(ORNL)など
米国SNS(ORNL)は加速器スパレーション中性子源として、標的・モデレータ・ビームラインの概説資料が充実している。欧州ではESSやILLなども中性子科学の中核を担う(本ページでは詳細は割愛する)。
10. 解析の基本視点:モデルと観測量の対応
中性子散乱データの解釈は、(i) 観測量が Q 空間(および ω 空間)で与えられること、(ii) 観測量が相関関数と直接結び付くこと、の二点を軸に整理される。
10.1 構造解析(弾性)
結晶構造は構造因子
10.2 ダイナミクス(非弾性)
非弾性散乱では
まとめ
中性子ビームは、電荷を持たないスピン1/2粒子の量子波として、核散乱と磁気散乱の二つの相互作用を基盤に、構造(
関連研究
- J-PARC MLF, Neutron and Muon instruments / beamline map(ビームライン配置と装置一覧) https://mlfinfo.jp/en/blmap.html
- J-PARC MLF, BL20 iMATERIA(装置概要) https://mlfinfo.jp/en/bl20/
- 石垣徹, J-PARC における粉末中性子回折装置(iMATERIAの設計要点を含む, 日本語, J-STAGE PDF) https://www.jstage.jst.go.jp/article/hamon/25/1/25_60/_pdf/-char/ja
- JRR-3 Users Office, Instruments(装置一覧) https://jrr3uo.jaea.go.jp/jrr3uoe/instruments/index.htm
- G. L. Squires, Introduction to the Theory of Thermal Neutron Scattering(教科書情報) https://www.cambridge.org/core/books/introduction-to-the-theory-of-thermal-neutron-scattering/A156AD08D11B8A9968A0735C4974ED3C
- NIST NCNR Summer School, Basic Elements of Neutron Inelastic Scattering(非弾性散乱の講義資料PDF) https://ncnr.nist.gov/summerschool/ss17/pdf/SS2017_Inelastic_Gehring.pdf
- NIST, Determinations of Boron Deposit Quality by Neutron Depth Profiling(He-3, 10B, 6Liを用いる検出の概説) https://www.nist.gov/programs-projects/determinations-boron-deposit-quality-neutron-depth-profiling
- CROSS(J-PARC MLF共用利用の枠組み概説) https://neutron.cross.or.jp/en/