キタエフ模型と量子状態
キタエフ模型(Kitaev honeycomb model)は、蜂の巣格子上のスピンが結合方向に依存したイジング型相互作用を持つことで、量子スピン液体を厳密解として実現する模型である。厳密可解性により、分数化励起(マヨラナ準粒子)と
参考ドキュメント
A. Kitaev, Anyons in an exactly solved model and beyond, Annals of Physics 321, 2–111 (2006)
https://doi.org/10.1016/j.aop.2005.10.005
(arXiv版)https://arxiv.org/abs/cond-mat/0506438S. Trebst, Kitaev Materials, arXiv:1701.07056 (2017)
https://arxiv.org/abs/1701.07056(日本語)那須譲治, キタエフ量子スピン液体の気液相転移, 日本物理学会誌 70(10) (2015)
https://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2015/10/70-10researches4.pdf
1. なぜキタエフ模型が重要か
キタエフ模型は、(i) 2次元以上の量子スピン模型としては稀な「厳密に解ける」例であり、(ii) その基底状態が対称性の破れでは特徴づけられない量子スピン液体であり、(iii) 励起がスピンのままではなく、分数化した準粒子とゲージ自由度で記述される、という三点を同時に満たす。
このため、強相関電子系における分数化・トポロジカル相・エニオン統計を、抽象理論としてではなく、具体的なハミルトニアンから追跡できる。
また、物質側の観点では、強いスピン軌道相互作用(SOC)と特定の結合幾何(エッジ共有八面体など)により、結合方向依存の異方的交換相互作用が現れ得ることが示され、実物質候補(いわゆる“Kitaev materials”)探索が強く駆動された。
2. 蜂の巣格子と結合方向依存イジング相互作用
2.1 ハミルトニアン
蜂の巣格子の最近接結合を、3種類の結合(
ここで
等方的な場合は
2.2 相互作用の「異方性」が幾何学に固定される
通常のハイゼンベルク模型
は回転対称であり、相互作用はスピン成分に依らない。一方キタエフ模型では、ボンド方向により「どのスピン成分が結合するか」が固定されるため、古典的なスピン配置でもフラストレーションが生じやすい。
このフラストレーションは、格子幾何(蜂の巣格子の3配位性)と相互作用の成分選択性が結び付くことで強化され、通常の磁気秩序が抑制される方向に働く。
3. マヨラナ表示と ゲージ場
3.1 マヨラナ分解
スピン
この表現はヒルベルト空間を拡大するため、物理部分空間への射影条件
が必要である。
3.2 ボンド変数と静的ゲージ場
ボンド
を定義すると、
- エルミート
- 固有値
- ハミルトニアンと可換(保存量)
となり、静的な
このときハミルトニアンは、固定された
すなわち「自由フェルミオン(マヨラナ)+静的
3.3 プラケットフラックスと保存量
六角形プラケット
と定義すると、
一方、
4. 相と励起
4.1 基底状態フラックスと相図の概形
等方点近傍では、基底状態は“フラックスなし”セクター(
結合定数
- ある領域ではマヨラナのバンドがディラック点を持つギャップレス相
- 別の領域ではギャップが開くギャップ相
が現れる。定性的には「一つの結合が卓越する異方的極限」でギャップ相に入りやすい。
4.2 励起の分数化
スピン演算子の作用は、一般に
- マヨラナ励起(連続スペクトルを形成)
- フラックス励起(局在的・ギャップを持つことが多い)
を同時に生成するため、動的スピン相関は鋭いマグノンピークよりも連続体を示しやすい。これは候補物質の非弾性中性子散乱などで議論される重要な指標である。
4.3 エニオンとトポロジカル秩序(概念)
2+1次元では、励起の交換統計がボース・フェルミに限られず、エニオン統計が許される。キタエフ模型のある相(ギャップ相)は、アーベルエニオンを持つトポロジカル秩序と理解される。
さらに、適切な摂動(例えば磁場により誘起される項)で非可換エニオンが現れることが理論的に示されている。
5. 磁場と非可換エニオン
5.1 磁場摂動
一様磁場を
として加えると、キタエフ模型の保存量構造は一般に破れる。ただし弱磁場を摂動として扱うと、3次の摂動で有効な三スピン相互作用が生成される:
この項は時間反転対称性を破り、マヨラナのギャップを開き、カイラルなトポロジカル相(非可換エニオンを持つ相)を安定化し得ると理解される。
5.2 熱ホール効果と議論の広がり
カイラルな位相ではエッジモードが熱輸送に寄与し、熱ホール伝導度の量子化に関する議論が生じる。
6. SOCと結合幾何が生むキタエフ相互作用
6.1 とSOCの役割
4d/5d遷移金属化合物ではSOCが強く、結晶場と相関により有効擬スピン
この擬スピン自由度に対して、結合幾何がエッジ共有八面体(M–X–Mが約90度)であると、通常のハイゼンベルク交換が抑制され、結合方向依存の交換が有利になる機構が提案された。
6.2 ジャケリ–カリウリン機構
エッジ共有八面体における超交換経路の干渉とSOCにより、擬スピンの相互作用が“コンパス型”へ変換され、キタエフ型相互作用が優勢になり得ることが示された。
この議論は、Na
7. 一般化模型: – – (– )と現実系
実物質では、純粋キタエフ項のみが孤立して現れることは稀であり、以下のような拡張が必要になる。
7.1 代表的な最近接一般化
ここで
7.2 磁気秩序と「近接する量子スピン液体」
8. 実験的観測量とキタエフ性の読み方
8.1 動的構造因子と連続体
非弾性中性子散乱で測定される動的構造因子
は、マグノンが良い準粒子であれば鋭い分散を示すが、分数化が強い場合は広い連続体を示し得る。
8.2 比熱とエントロピー
キタエフ模型では、自由度がマヨラナとゲージに分かれるため、温度に対して比熱が二段構造を示すという議論が知られる。候補物質では格子振動(フォノン)寄与の分離が必要であるが、磁場角度依存比熱など多様な測定が進んでいる。
8.3 熱ホール効果
絶縁体における熱ホールは、電荷ではなくエネルギー(熱)を運ぶ励起に由来する。キタエフ模型のカイラル相と関連付けて、半整数量子化熱ホールが議論され、追試・検証・理論再検討が継続している。
9. 計算理論の解
キタエフ模型自体は厳密可解であり、自由マヨラナ系として
- バンド計算(固定フラックス)
- 有限温度のフラックス統計
- 動的相関の数値計算 などが可能である。
一方、一般化模型
- 厳密対角化(ED)
- DMRG・テンソルネットワーク
- 擬粒子理論、スピン波理論(秩序相)
- 有限温度手法(制限付き) などが併用される。
10. Kitaev模型とSYK模型の相違
“キタエフ”の名を含む模型として、Sachdev–Ye–Kitaev(SYK)模型があるが、これは多数体無秩序相互作用を持つ量子力学模型であり、蜂の巣格子スピン模型としてのキタエフ模型とは別物である。
両者は「分数化」「マヨラナ」「量子情報・重力との接点」といった語彙が重なるため混同されやすいが、自由度・次元・目的が根本的に異なる。
| 項目 | キタエフ蜂の巣模型 | SYK模型 |
|---|---|---|
| 自由度 | 格子上のスピン(擬スピン) | 多体フェルミオン(しばしば無秩序) |
| 次元 | 2次元(拡張で3次元も) | 0+1次元(量子力学) |
| 中核 | ボンド依存交換と | 無秩序相互作用と量子カオス |
| 関連 | 量子スピン液体、エニオン、候補物質 | ホログラフィー、量子情報的性質 |
11. キタエフ模型と近縁スピン模型
| 模型 | 代表ハミルトニアン | 主な対称性 | 期待される相の例 |
|---|---|---|---|
| ハイゼンベルク | SU(2)回転対称 | 磁気秩序(反強磁性など) | |
| XXZ | U(1) | 磁気秩序、量子揺らぎ相 | |
| コンパス型 | 結合方向で成分が変わる | 格子に依存 | 強いフラストレーション |
| キタエフ | 一般に離散 | 厳密可解QSL、分数化 |
まとめと展望
キタエフ模型は、スピンが分数化してマヨラナ準粒子と
今後は、(i) 実物質の一般化相互作用(
参考
G. Jackeli and G. Khaliullin, Mott Insulators in the Strong Spin-Orbit Coupling Limit: From Heisenberg to a Quantum Compass and Kitaev Models, Phys. Rev. Lett. 102, 017205 (2009)
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.102.017205J. G. Rau, E. K.-H. Lee, H.-Y. Kee, Generic Spin Model for the Honeycomb Iridates beyond the Kitaev Limit, Phys. Rev. Lett. 112, 077204 (2014)
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.112.077204I. Kimchi and Y.-Z. You ほか、磁場下キタエフ模型の動的応答に関する研究例(Phys. Rev. B 100, 144445 (2019) など)
https://doi.org/10.1103/PhysRevB.100.144445A. Banerjee ほか, Neutron scattering in the proximate quantum spin liquid α-RuCl3, Science (2016)
https://www.science.org/doi/10.1126/science.aah6015Y. Kasahara ほか, Majorana quantization and half-integer thermal quantum Hall effect in a Kitaev spin liquid, Nature (2018)
https://www.nature.com/articles/s41586-018-0274-0T. Yokoi ほか, Half-integer quantized anomalous thermal Hall effect in the Kitaev material α-RuCl3, Science (2021)
https://www.science.org/doi/10.1126/science.aay5551(日本語・プレスリリース)東京工業大学, 幻の粒子「マヨラナ粒子」の発見(熱ホール量子化の報告に関する解説, 2018)
https://www.titech.ac.jp/news/2018/041882(日本語)日本物理学会誌:キタエフ模型の分数化に関する解説(2017)
https://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2017/12/72-12trends.pdf(日本語・話題整理)段下一平, Sachdev–Ye–Kitaev模型,ブラックホール,冷却気体系, 日本物理学会誌 (2018)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri/73/8/73_569/_article/-char/ja/(日本語・大学発)東京工業大学, α-RuCl3における磁場角度依存比熱からのマヨラナ準粒子の性質(2022)
https://www.titech.ac.jp/news/2022/062845(日本語・大学発)東京大学大学院理学系研究科, キタエフ量子スピン液体・マヨラナ粒子に関する解説を含む発表(2024)
https://www.k.u-tokyo.ac.jp/information/category/press/10837.html