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硬X線光電子分光(HAXPES)の原理

HAXPES(Hard X-ray Photoelectron Spectroscopy)は、硬X線で光電子を励起し、表面直下から埋もれた界面までの電子状態と化学状態を、光電子分光の枠組みで定量的に読む手法である。励起光を硬X線域へ拡張することで、脱出深さの増大と界面選択性の設計自由度が得られる点が特徴である。

参考ドキュメント

  1. 大治宏史, SPring-8 BL46XU における硬X線光電子分光(HAXPES)
    https://www.sasj.jp/JSA/CONTENTS/vol.21_3/Vol.21 No.3_03_Oji.pdf
  2. NIST Electron Inelastic-Mean-Free-Path Database (SRD 71) Users Guide
    https://www.nist.gov/document/srd71usersguidev1-2pdf
  3. C. S. Fadley, Hard x-ray photoemission with angular resolution and standing-wave excitation
    https://fadley.physics.ucdavis.edu/Fadley.HXPS.AngleRes.SWExcitation.reprint.pdf

1. HAXPESとは何か

光電子分光(PES)は、光を入射して電子を放出させ、その運動エネルギーと放出角を測ることで、固体中の電子状態を束縛エネルギーとして復元する方法である。HAXPESは、この励起光として概ね数keV以上の硬X線を用いるPESの総称であり、実験室系高エネルギー線源(Cr Kα、Ga Kαなど)や放射光の高輝度・高単色硬X線を活用して実施される。

HAXPESの狙いは、主に次の三点に整理できる。

  1. 分析深さの拡大
    光電子の運動エネルギーが高いほど、固体内の非弾性散乱を受けずに表面へ到達できる確率が増え、結果として情報深さが増大する。
  2. 埋もれた界面・膜内部の化学状態の抽出
    表面汚染や自然酸化層の寄与を相対的に減らし、キャップ層や多層膜の下にある層の内殻準位・価電子帯を観測可能にする。
  3. 高エネルギー領域特有の効果(運動量、反跳、非双極子効果)の利用と理解
    光子運動量が無視できない、軽元素で反跳シフトが無視できない、角度分布が従来の近似から外れる、といった新たな物理が測定・解釈に入ってくる。

2. エネルギー保存則から束縛エネルギーを得る

2.1 基本式:束縛エネルギーと運動エネルギー

単一光子吸収による光電子放出では、エネルギー保存則は

Ek=hνEBϕ

で与えられる。ここで、Ek は測定される光電子の運動エネルギー、hν は入射光子エネルギー、EB は固体内の束縛エネルギー、ϕ は仕事関数(分光器・試料参照の取り方で表記が変わりうる)である。

金属試料を分光器に電気的に接地し、フェルミ準位を基準に束縛エネルギーを定義すれば、実験では

  • 既知のフェルミ端(または標準試料の準位)でエネルギー軸を合わせる
  • 分光器の仕事関数は装置校正に吸収させる という整理が一般的である。

2.2 角度・運動量の関係

運動エネルギーが得られると、自由電子近似での電子波数は

k=2mEk

で与えられる。角度分解測定では、表面平行成分は

k=2mEksinθ

となる。

HAXPESでは光子運動量が無視できない領域に入り、光子波数

kγ=hνc

が、ブリルアンゾーンの代表的な大きさ(およそ 1 \AA1 程度)と同程度になり得る。したがって、角度分解HAXPES(HARPES)や立ち上がり幾何では、運動量保存を議論する際に kγ を含めた補正が必要になる。

3. 非弾性平均自由行程と情報深さ

3.1 強度の深さ依存:指数減衰

深さ z に存在する同一成分からの信号強度を、単純化したモデルで書くと

dI(z)n(z)σ(hν)T(Ek,θ)exp(zλ(Ek)cosθ)dz

となる。ここで λ(Ek) は非弾性平均自由行程(IMFP)、θ は表面法線からの放出角、σ は光電離断面積、T は分光器の透過関数である。積分すると、均一試料では

Iλ(Ek)cosθ

に比例するため、λ が大きいほど、より深い領域の寄与が増える。

実際の試料では弾性散乱も寄与し、情報深さの評価にはEAL(Effective Attenuation Length)が用いられることが多いが、直観としては上式で十分に有効である。

3.2 エネルギー依存

IMFPは電子運動エネルギーの関数であり、低エネルギー側で短く、中高エネルギーで長くなる傾向が知られている。定量には、光学データに基づく計算や予測式(TPP-2Mなど)が広く使われ、材料パラメータ(密度、価電子数、バンドギャップ近似など)を通じて λ(E) を見積もる。

HAXPESでは Ek が数keVに達するため、典型的な酸化物・金属・半導体で、表面感度が支配的なXPS(数十eV〜1.5keV励起)よりも、情報深さが数倍以上に増大しやすい。

3.3 幾何による深さの制御:放出角と入射角

放出角は cosθ を通じて情報深さに直接かかるため、同じ hν でも角度を変えるだけで表面寄り・バルク寄りの重みを変えられる。

またHAXPESでは、硬X線でも全反射臨界角が存在し、入射角を臨界角近傍に設定すると、電磁場の侵入深さが浅くなり、励起そのものを表面側へ寄せることができる。これにより、電子の脱出深さが長いという性質を保ったまま、励起体積側の深さ選択性を追加できる。多層膜・薄膜界面では、入射角や多層周期による立ち波(standing wave)励起と組み合わせると、深さ分解能をさらに高められる。

4. スペクトルが何で決まるか:内殻準位、価電子帯、線形と幅

4.1 内殻準位スペクトルの基本構造

内殻準位のピーク位置(束縛エネルギー)は、元素同定だけでなく化学状態(酸化数、配位、結合性)を反映する。化学シフトの要因は、概念的には

ΔEBΔμ+KΔQ+ΔVM+Δϕ+ΔER

のように整理されることがある。ここで、Δμ は化学ポテンシャル変化、KΔQ は電荷移動に対する内殻準位の感度、ΔVM はマーデルング電位など静電環境、Δϕ は表面電位やバンドベンディング、ΔER は終状態の緩和・遮蔽を表す。

HAXPESの利点は、表面汚染や極表面のバンドベンディングに強く引きずられにくい条件で、膜内部や界面近傍の内殻準位を押さえやすい点にある。

4.2 線幅:寿命幅、装置分解能、温度効果

観測されるピーク幅は、単純には

ΔEobsΔElife2+ΔEinst2+ΔEtherm2+

のように複数の寄与の畳み込みで決まる。HAXPESでは高エネルギー化に伴い分光器設計が難しくなる一方、放射光では単色性と光束密度を両立できるため、特定条件では内殻線の精密な化学シフト評価も十分に可能である。

4.3 高エネルギー特有の効果:反跳、非双極子、角度分布

硬X線領域では、以下が無視できなくなる。

  • 反跳(recoil)
    軽元素ほど、放出電子の運動量に対する原子核側の反跳エネルギーが相対的に大きく、ピーク位置のシフトや広がりが化学シフトと同程度になりうる。軽元素を含む埋もれ界面(C、O、Nを含む層)では、反跳寄与の見積もりが解釈上重要となる。
  • 非双極子効果
    光電効果の角度分布は、通常は双極子近似でdσdΩ=σ4π(1+βP2(cosϑ))の形を取るが、硬X線では高次項の寄与が増え、角度分布が変形する。したがって、幾何を変えた比較や定量組成解析では、従来の感度係数の延長だけでは誤差が出る場合がある。
  • 弾性散乱と回折的効果
    電子のエネルギーが高くなると前方散乱が強くなり、検出角依存や結晶方位依存がスペクトル形状に混ざりうる。これは不要な揺らぎとして現れる場合もあれば、反対に局所構造情報(光電子回折)の源になる場合もある。

5. 測定装置の要点:硬X線、分光器、高電圧

5.1 励起光:放射光と実験室系HAXPES

放射光では、高輝度・高単色の硬X線が得られ、エネルギー掃引、偏光制御、微小スポット、時間構造などが利用できる。大型施設ではHAXPES専用装置が整備され、10keV級まで対応する半球型アナライザや高透過アナライザが使われる。

一方で実験室系HAXPESでは、Ga Kα(9.25 keV)など高エネルギー線源と高透過アナライザを組み合わせ、試料の化学状態の迅速な評価や、放射光測定に先立つ比較・参照取得に適した環境が提供されつつある。

5.2 電子エネルギー分析器:半球型と高透過設計

半球型分析器のエネルギー分解能は、代表的にはパスエネルギー Ep とスリット幅 w、半球半径 R を用いて

ΔEEpwR

のようにスケールする。高分解能には小さな Ep が有利だが、透過強度が低下しやすい。HAXPESではもともと光電離断面積が低下するため、単色性・透過・光束のバランス設計が重要となる。

硬X線で励起された光電子の運動エネルギーは数keVに達するため、分析器には高電圧バイアス(減速レンズ系)を含む構成が導入される。これにより、高い Ek を保ったまま電子を効率よく収集し、分析器内部では適切なエネルギーに減速して高分解能測定を行う。

5.3 検出モード:角度積分と角度分解

HAXPESの多くは角度積分(または狭い角度窓の平均)として使われ、化学状態・膜内部のバンド整列・界面準位の評価に適用される。角度分解HAXPESは、バルク電子構造の運動量分解観測を可能にするが、光子運動量、回折、弾性散乱、断面積低下などの要因が増えるため、目的に応じて測定設計が変わる。

6. 何が見えるか:典型的な観測対象

6.1 埋もれた界面のバンド整列と電位分布

酸化物/半導体/金属界面などでは、内殻準位の位置から電位分布(バンドベンディング)や界面での化学状態変化(酸素欠損、混晶化、拡散)を追いやすい。深さ情報は、放出角の変更や励起エネルギー変更、立ち波励起によって強調・分離が可能である。

6.2 多層膜・キャップ層下の磁性・化学状態

磁性薄膜では、表面酸化を避けるためのキャップ層が用いられることが多い。HAXPESはキャップ層下の磁性層の内殻準位や価電子帯を観測でき、化学状態の保持や界面反応の有無を判断する情報を与える。円偏光を併用する法線(磁気円二色性)と組み合わせる拡張も存在する。

6.3 軽元素を含む材料での注意:反跳と衛星構造

Li、B、C、N、Oなど軽元素を含む材料(電池材料、窒化物、炭化物、酸化物)では、反跳によるピーク位置変化や広がりが評価に入ってくる。加えて、プラズモン損失や電荷移動衛星が重なったとき、ピーク分離のモデルが変わる。硬X線化でバックグラウンド形状が変化する場合もあり、低エネルギーXPSの直観だけで当てはめない姿勢が必要である。

7. 手法間の比較

項目実験室XPS(Al Kα 1.49 keV)軟X線PES(数百eV〜1.5 keV)HAXPES(数keV〜十数keV)
主な感度表面・吸着層・自然酸化表面〜浅いバルク、バンド分散も可能膜内部・埋もれ界面・バルク寄り
情報深さ(定性的)数nm程度が中心数nm〜十nm未満の範囲が中心XPSより数倍以上深くなり得る
光電離断面積大きい(特に価電子帯)中程度小さくなる傾向
角度分解装置により可能盛んに利用可能だが条件が難しい
高エネルギー特有の補正小〜中光子運動量、反跳、非双極子が効く
得意対象表面化学、汚染、触媒表面表面電子構造、薄膜キャップ下界面、埋もれ層、デバイス断面

8. 定量解析の考え方:組成、層構造、深さ

8.1 感度係数と透過関数

組成定量は、ピーク面積を光電離断面積や分析器透過で補正して比較するのが基本である。HAXPESでは

  • 断面積の急速な低下
  • 角度分布の変形
  • 深さ重みの変化 が同時に起こるため、既存のXPS感度係数をそのまま流用せず、条件に合わせた参照測定や計算を併用するのが望ましい。

8.2 多層膜モデル:指数減衰の重ね合わせ

多層膜の最小モデルでは、各層 i の厚さ ti と減衰長 Λi=λicosθ を用いて、層ごとの寄与を指数減衰で足し合わせる。二層膜の例では、上層(1)と下層(2)の信号は概ね

I1(1et1/Λ1),I2et1/Λ1(1et2/Λ2)

と書ける。HAXPESでは Λ が大きくなるため、膜厚が数nm〜十nmでも下層が見えやすくなる。

8.3 立ち波・全反射近傍の深さ選択

多層周期構造での立ち波励起では、電場強度の腹と節が深さ方向に形成され、同じ脱出深さでも励起の重みを層選択的に変えられる。全反射臨界角近傍では、入射角を変えることで侵入深さが大きく変化するため、表面側への励起局在を得られる。これらは、層厚が既知である多層膜や人工周期構造に特に有効である。

9. 観察事項

  • 絶縁体・半導体の帯電
    帯電は束縛エネルギー軸の剛体シフトだけでなく、局所的なポテンシャル分布を通じてピーク形状の歪みにもつながる。導電経路の確保、低フラックス条件、参照ピークの併用などで評価する。
  • 表面汚染とキャップ層
    HAXPESは表面寄与を弱めるが、完全に消すわけではない。キャップ層や汚染層があると、深さ重み付けの前提が変わる。膜厚・密度の情報と併せて解釈する。
  • 反跳・非双極子効果
    軽元素や高角度測定では、ピーク位置や相対強度が想定以上に変わる場合がある。幾何を変えた再現性確認や、既知標準との比較が重要となる。
  • 終状態効果(遮蔽、衛星)
    金属化・相転移・ドーピングで終状態遮蔽が変わると、化学シフトと同程度の変化が起こり得る。価電子帯情報や他手法(XASなど)と整合を取る。

まとめ

HAXPESは、光電子分光のエネルギー保存則という単純な原理を基盤にしつつ、硬X線化によって情報深さを拡張し、埋もれた界面や膜内部の電子状態を可視化する手法である。高エネルギー領域では光子運動量、反跳、非双極子効果などの追加要素が測定と解釈に入るため、深さ重み付けと高エネルギー特有の物理を同時に組み込むことで、界面・バルクの定量議論が成立するのである。

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