線形代数の初歩
線形代数は、ベクトルと線形写像(行列)を共通言語として、方程式・幾何・最適化・物理を統一的に扱う基礎理論である。計算規則の背後にある構造(空間・写像・分解)を押さえることで、式変形の意味が見通せるようになるのである。
参考ドキュメント
- 東京大学 数理科学研究科:線形代数学第一(講義資料ページ) https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~kelly/Course2021LinAlg/2021LinAlg.html
- 島根大学:数学基礎IV(線形代数学)講義ノート(PDF) https://www.math.shimane-u.ac.jp/~tosihiro/skks4main.pdf
- MIT OpenCourseWare:18.06 Linear Algebra(Strang 講義ノート等) https://ocw.mit.edu/courses/18-06-linear-algebra-spring-2010/
0. 記法と前提
スカラー体は実数体
1. ベクトル空間:何が「ベクトル」なのか
1.1 ベクトル空間の定義
集合
- 任意の
に対し和 が定義される。 - 任意の
と に対しスカラー倍 が定義される。 - それらが交換法則・結合法則・分配法則・零ベクトルの存在・逆ベクトルの存在などの公理を満たす。
この定義は抽象的であるが、「加法」と「スカラー倍」が自然に定義でき、線形結合が意味をもつ対象は多くがベクトル空間になるのである。
1.2 基本例( 以外も含む)
線形代数では
: 次元列ベクトル全体。 - 多項式空間:次数
の多項式全体は次元 のベクトル空間である。 - 関数空間:区間上の連続関数全体は無限次元のベクトル空間である。
- 行列空間:
行列全体は次元 のベクトル空間である。
「成分を足す」「定数倍する」が自然であれば、対象は数列でも関数でも行列でもよいのである。
2. 部分空間と張る(span):直線・平面・より高次元
2.1 部分空間
を満たすことである。 これにより、原点を通る直線や平面が「部分空間」として統一されるのである。
2.2 線形結合と張る集合(span)
ベクトル
である。これら全体の集合を
と書き、「
3. 座標の意味を決める
3.1 一次独立
が成り立つことである。 一次独立とは「余計な重なりがない」状態であり、座標表示が一意になる条件である。
3.2 基底と次元
基底
と表せる。この係数
重要なのは、基底は一つではないが、次元は不変量である点である。 別の基底を選ぶことは「同じ対象を別の座標系で見る」ことに相当するのである。
3.3 基底変換と行列
2つの基底
: 基底での座標 : 基底での座標
と書くと、ある正則行列
の形で結ばれる。 この
4. 線形写像:行列の本体は「写像」である
4.1 線形写像の定義
写像
を満たすことである。 線形性は「足し算と定数倍を保つ」性質であり、この性質が計算を大幅に単純化するのである。
4.2 核(kernel)と像(image)
核(零化空間)と像は次である。
核は「つぶれる方向」、像は「到達できる範囲」である。 この2つは線形写像の性格を最も端的に表す対象である。
4.3 次元定理(階数・退化度)
有限次元であれば
が成り立つ。 行列
(階数) (退化度)
であり、
となる。 連立一次方程式
5. 行列:計算規則と意味を一致させる
5.1 行列の積の意味
行列積
である。 したがって一般に
5.2 逆行列と正則性
正方行列
となることである。 幾何的には、正則とは「空間をつぶさない」ことであり、解析的には「
5.3 階数と線形方程式
一意性はさらに
6. 行列式:体積倍率として理解する
行列式
は体積倍率である。 は、体積が 0 になる、すなわちつぶれが起きることを意味する。 は正則性と同値である。
また固有値
が成り立つ(代数的重複を含む)。 この関係は固有値が「変換の本質的伸縮率」であることを示しているのである。
7. 内積空間と直交:角度・長さ・射影が導入される
7.1 内積とノルム
内積
が定まる。 直交は
7.2 グラム・シュミット正規直交化
一次独立な
一般に
である。 直交基底が得られると、射影や最小二乗が簡潔に書けるようになる。
7.3 直交射影
部分空間
で与えられる。 射影は「最も近い点」を返す操作であり、誤差
8. 基本分解:LU・QR・SVD という三本柱
線形代数では、行列を意味のある因子に分けることで理解と計算が進むことが多い。 ここでは三つの重要分解をまとめる。
| 分解 | 形 | 何を表すか | よく現れる場面 |
|---|---|---|---|
| LU分解 | 下三角と上三角への分解 | 連立一次方程式の解法 | |
| QR分解 | 直交(ユニタリ)と上三角 | 最小二乗、直交化 | |
| SVD | 直交変換+伸縮+直交変換 | 次元圧縮、近似、擬似逆 |
これらは「計算の道具」であるだけでなく、行列の幾何学的意味を取り出す装置である。
8.1 LU分解
であり、まず
8.2 QR分解と最小二乗
と分解できる(
は、
へ簡約され、上三角
8.3 特異値分解(SVD)
任意の
と書ける。
特異値
また
9. 固有値・固有ベクトル:変換の本質的な方向と倍率
9.1 定義と意味
固有値問題は
である。
9.2 対角化とその条件
独立な固有ベクトルが
と対角化できる(
となり、冪が容易に評価できる。 対角化できない場合は一般にはジョルダン標準形に進むが、初歩では「対称(エルミート)なら必ず対角化できる」という強い結果が特に重要である。
9.3 スペクトル定理(対称・エルミート)
実対称行列
と対角化できる。ここで固有値はすべて実数であり、固有ベクトルは直交に取れる。 この定理は二次形式、振動モード、量子力学の観測量(エルミート演算子)の数学的基盤である。
10. 二次形式と正定値:エネルギーの形を読む
二次形式は
である。
正定値(positive definite)は
で定義され、これは固有値がすべて正であることと同値である。 正定値は「曲率が正」「エネルギーが下に凸」といった性質を線形代数で表現したものと見なせる。
11. 条件数という指標
連立一次方程式や最小二乗では、係数行列がほとんどつぶれていると、入力のわずかな変化に解が大きく影響されることがある。 その程度を表す基本量が条件数である。
2ノルムに関して
であり、SVD により
と書ける(
12. 物理・量子力学への接続:線形代数が土台になる理由
量子力学では、状態はヒルベルト空間のベクトル
- 観測量:
(固有値は実、固有状態は直交) - 時間発展:ユニタリ
(内積保存) - 状態の重ね合わせ:線形結合(ベクトル空間)
- 密度行列:
(半正定値、トレース1)
したがって、線形代数の基礎(内積、直交、固有分解、ユニタリ変換、正定値性)を押さえることは、量子理論の式の意味を見通す最短経路の一つである。
まとめと展望
線形代数の初歩は、ベクトル空間・部分空間・基底・次元という「空間の言葉」を定義し、線形写像を核と像で特徴づけ、行列を写像の表現として扱う枠組みを確立する段階である。そこから内積と直交を導入すると、射影・最小二乗・直交分解が自然に現れ、さらに固有値分解や特異値分解が変換の本質(伸縮と向き)を抽出する道具として位置づくのである。
展望としては、(1) 無限次元の線形代数(関数空間、フーリエ解析、作用素論)へ進むことで、量子力学・偏微分方程式の基礎が一段深まる、(2) 正定値性と分解(Cholesky、スペクトル分解)を軸にすると最適化・統計の数学が見通せる、(3) SVD を軸にすると低ランク近似や情報抽出の理解が統一される、という方向に接続される。初歩の定義と分解の意味付けを丁寧に固めることが、以後の発展を滑らかにするのである。
参考文献
Gilbert Strang:ZoomNotes for Linear Algebra(PDF) https://ocw.mit.edu/courses/18-06-linear-algebra-spring-2010/4d876a9159e32543eb0d73b4d4382f4c_MIT18_06S10ZoomNotes.pdf
MIT:18.06 Lecture notes(PDF例) https://web.mit.edu/18.06/www/Spring21/Lecture notes.pdf
埼玉大学:線形代数学 講義ノート(PDF) https://www.rimath.saitama-u.ac.jp/lab.jp/Fukui/lectures/Linear_algebra.pdf
東京女子大学(公開ページ経由):線形代数学I 講義ノート(PDF) https://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~akio.tomiya/tonjo_pdf/linear_algebra2024_v3_note.pdf
神奈川大学:線形代数学 講義ノート(PDF) https://www.math.kanagawa-u.ac.jp/mine/linear_alg/linear_alg_2017_02_28.pdf