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量子コンピュータの物理

量子コンピュータは、量子状態の重ね合わせと干渉を制御し、測定として情報を取り出す計算機である。核心は、ハミルトニアンに基づく時間発展、環境との相互作用による散逸、そして誤り訂正による論理情報の安定化である。

参考ドキュメント

1. 量子計算を支える基本法則

1.1 状態と観測量

純粋状態はヒルベルト空間のベクトル |ψ で表される。混合状態は密度演算子 ρ で表される。

  • 純粋状態:ρ=|ψψ|
  • 期待値:A=Tr(ρA)

二準位系(量子ビット)では、パウリ行列

σx=(0110),σy=(0ii0),σz=(1001)

を用い、任意の密度演算子は

ρ=12(I+rσ),rR3, |r|1

と書ける。r がブロッホ球のベクトルである。

1.2 ユニタリ時間発展

閉じた系の時間発展はシュレーディンガー方程式で与えられる。

iddt|ψ(t)=H(t)|ψ(t)

時間発展演算子は

U(t)=Texp(i0tH(t)dt)

である。量子ゲートは U を所望の形に設計した操作であり、物理的にはパルス、結合、共鳴条件の調整として実現される。

1.3 測定と情報の取り出し

射影測定では、射影演算子 {Pm} により

p(m)=Tr(Pmρ),ρρm=PmρPmTr(Pmρ)

と更新される。実デバイスでは測定誤差が存在し、測定は理想射影ではなく、一般に POVM {Em} を用いた記述が必要になる。

2. 開放量子系としての量子ビット:緩和・位相緩和・雑音

現実の量子ビットは環境と相互作用する開放系である。代表的モデルはリンドブラッド方程式である。

dρdt=i[H,ρ]+k(LkρLk12{LkLk,ρ})

ここで Lk は散逸(ジャンプ)演算子である。

2.1 T1T2

  • エネルギー緩和時間:T1(励起が基底へ落ちる時間尺度)
  • 位相緩和時間:T2(位相情報が失われる時間尺度)

多くの系で

1T2=12T1+1Tφ

が成り立つ。Tφ は純粋位相緩和であり、低周波雑音(1/f 雑音など)に強く依存する。

2.2 雑音スペクトルと感度

ハミルトニアンが H=H0+δλ(t)V と摂動を受けるとき、雑音のスペクトル密度 Sλ(ω) によって緩和率が決まるという見方が有効である。例えば、共鳴周波数 ω01 の近傍の雑音は T1 を劣化させ、低周波成分は位相拡散として Tφ を劣化させる。

3. 量子ゲートの物理:単一量子ビットと二量子ビット

3.1 単一量子ビット操作

単一量子ビット回転は

U(θ,n^)=exp(i2θn^σ)

で表される。物理的には、共鳴駆動(マイクロ波、レーザー、RF)により有効ハミルトニアン HdriveΩ(t)σx,y を作り、パルスの面積が回転角 θ を与える。

3.2 二量子ビット相互作用とエンタングルメント

二量子ビットゲートの基本的骨格は相互作用項である。例として交換相互作用

Hex=J(t)S1S2

や、横結合

HXY=g(σx(1)σx(2)+σy(1)σy(2))

がある。これらは CNOT、CZ、iSWAP などのエンタングリングゲートの母体となる。

4. 主要プラットフォームの物理と材料・デバイス要因

4.1 超伝導回路量子ビット(ジョセフソン接合)

超伝導量子ビットでは、ジョセフソン接合が非線形インダクタとして機能し、実効的な二準位系を作る。基本ハミルトニアンは

H=4EC(nng)2EJcosϕ

である。ここで EC=e2/(2C) は充電エネルギー、EJ はジョセフソンエネルギー、n はクーパーペア数演算子、ϕ は位相差である。

代表的なトランズモンでは EJ/EC1 とし、電荷雑音に鈍感化する。遷移周波数の近似は

ω018EJECEC

である(高次補正を省略する)。

cQED(回路量子電磁力学)では、量子ビットと共振器を結合し、結合ハミルトニアン

Hint=g(aσ+aσ+)

により読み出しやゲート操作を実現する。

超伝導デバイスでは、薄膜・界面・絶縁層が損失や雑音を支配しやすい。とくに、アモルファス酸化物や界面欠陥に起因する二準位系(TLS)が誘電損失と周波数揺らぎの主要因として議論されることが多い。共振器の内部品質係数 Qi は損失正接 tanδ と参加率 p を用いて概略

1Qijpjtanδj

と表される。電場が界面に集中すると pj が増え、単一光子レベルでの損失が顕在化しやすい。

超伝導回路で重要な物性・工学的要素の例は以下である。

  • 接合(例:Al/AlO_x/Al)の酸化膜品質とばらつき
  • 薄膜超伝導体(Al, Nb, NbTiN, Ta など)の欠陥・粒界・応力
  • 基板(サファイア、Si など)と表面処理
  • 渦糸、準粒子、放射損失、パッケージング由来のモード結合

4.2 半導体スピン量子ビット(量子ドット、ドナー、受容体)

半導体中の電子スピンを量子ビットとして用いる。最も基本的には

HZ=12gμBBσ

のゼーマン分裂で二準位を定義する。二量子ビット操作は交換相互作用や電気的制御(スピン軌道相互作用、マイクロマグネットによる磁場勾配)を用いる。

量子ドット系では、電荷雑音が交換結合 J の揺らぎとして現れ、位相緩和の主要因になりやすい。一方、同位体純化などにより核スピン(超微細相互作用)を抑える設計も進み、製造技術を活用したスケーラビリティが強く意識されている。

重要なデバイス要素の例は以下である。

  • ゲート電極と界面(Si/SiO_2, Si/SiGe など)のトラップ
  • 価電子帯・谷自由度(valley)と分裂の制御
  • 低温配線、読み出し(RF 反射、電荷センサ)と高周波設計

半導体スピン量子ビットは、標準的な半導体製造との親和性が期待され、先端製造での量子ビット作製という流れも強い。

4.3 トラップドイオン

真空中に捕獲したイオンの内部状態(超微細準位や光学遷移)を量子ビットに用いる。イオン列の共通運動モードがバスとなり、レーザーでスピンと運動を結合してエンタングルメントを作る。

モルマー・ソレンセン(MS)型ゲートは、概念的には

HMS(σϕ(1)+σϕ(2))(aeiδt+aeiδt)

のような相互作用を介し、運動自由度を経由して σϕ(1)σϕ(2) 型の有効相互作用を生成するという理解がしばしば用いられる。

本方式では、単一量子ビットのコヒーレンスが長い一方、レーザー安定性・モード加熱・スケーリング(多数イオンでのモード混雑)などが工学的課題になる。

4.4 中性原子(光ピンセット、光格子、リュードベリ相互作用)

中性原子を光トラップで配列し、リュードベリ励起により強い相互作用を得る。リュードベリブロッケードでは、原子間距離 R に依存する相互作用 Vrr(R) が駆動のラビ周波数 Ω に比べて十分大きいとき

Vrr(R)Ω

となり、二重励起が抑制される。この性質を利用して CZ などの二量子ビットゲートを実現する。

中性原子は多数の粒子を規則的に並べやすく、原子配列の再構成、並列ゲート、光学的読み出しが特徴となる。一方で、原子の温度、散乱、レーザー位相雑音、リュードベリ状態の寿命などが忠実度を左右する。

4.5 光量子(フォトニクス、測定型計算、ボソンサンプリング)

光子は室温でも比較的コヒーレンスを保ちやすく、伝送や干渉に強みがある。線形光学では、測定とフィードフォワードを含む測定型量子計算(MBQC)が重要な構成になる。基本的には、クラスタ状態の資源を用い、単一量子ビット測定で計算を進める。

光子系では損失が本質的問題であり、光源、検出器、導波路損失、結合損失が全体性能に直結する。その一方で、集積フォトニクス、スクイーズド光の資源化、多チップネットワーク化などの方向で大規模化の試みが続いている。

4.6 トポロジカル量子ビット(マヨラナ零モードなど)

トポロジカルな自由度に論理情報を符号化し、局所摂動に対する耐性を得るという発想である。マヨラナ零モードを用いる提案では、フェルミオンパリティ測定やブレイディング/測定ベース操作が中心概念になる。近年もパリティ測定など要素技術の報告が続くが、スケールする計算機として確立したと断言できる段階ではなく、今後の検証が重要である。

5. プラットフォーム比較

プラットフォーム情報担体二量子ビット相互作用の代表像強み主要な制約要因の例
超伝導回路マクロな回路自由度(接合非線形)共振器媒介、直接結合(XY/ZZ)高速ゲート、集積回路として設計可能界面損失(TLS)、準粒子、磁束雑音、パッケージング
半導体スピン電子スピン(量子ドット等)交換相互作用 J(t)、電気的制御製造プロセスとの親和性、微細化電荷雑音、核スピン、谷自由度、読み出し回路
トラップドイオン原子内準位運動モード媒介(MSゲート等)長いコヒーレンス、精密制御レーザー安定性、加熱、モード混雑
中性原子原子内準位リュードベリ相互作用大規模配列、並列性原子温度、光学雑音、状態寿命、損失
光量子光子(導波路/空間モード)干渉+測定+フィードフォワード伝送、室温動作の概念的優位損失、光源・検出器、規模に伴う複雑性
トポロジカルトポロジカル自由度パリティ測定、測定型操作原理的耐性の期待実現条件の厳しさ、検証段階

6. 誤り訂正の物理:論理量子ビットを作る

6.1 なぜ誤り訂正が必要か

物理量子ビットは必ず誤り率 p を持つ。量子誤り訂正(QEC)は、複数の物理量子ビットに論理情報を分散させ、誤りを検出・補正して論理誤り率 pL を抑制する枠組みである。重要なのは、物理誤り率が閾値 pth より十分小さいときに、距離 d を増やすことで pL が指数的に減少するという相転移的性質である。

表現として、表面符号(surface code)では概略

pLA(ppth)(d+1)/2

のような形がしばしば用いられる(係数 A は実装やデコーダに依存する)。

6.2 表面符号(surface code)の要点

表面符号は二次元格子上に物理量子ビットを配置し、スタビライザ測定により誤りを同定する。測定結果は時系列データとして得られ、デコーダはその履歴から誤り連鎖を推定する。したがって、QEC は量子側だけでなく古典側の推定計算とも分離できない。

近年、表面符号の閾値の下で誤り抑制が得られたとする報告や、回路構成の柔軟性を高める動的表面符号の実証などが報告されている。これらは、ハードウェア設計の自由度と QEC の成立条件が、固定化された一つの回路様式に限定されない可能性を示す。

6.3 誤り訂正で支配的になる物理量

誤り訂正の成否は、単一量子ビット忠実度だけでは決まらない。例えば以下が同時に効く。

  • 二量子ビットゲート誤差の非対称性(位相誤差が支配的か、ビット反転が支配的か)
  • リーク(計算空間外への遷移)
  • 測定誤差と測定遅延
  • 相関雑音(空間的・時間的に相関した誤り)
  • 古典側復号の遅延と精度(大規模化で重要)

7. 展望:スケールに効く物理課題の整理

7.1 量子ビット数だけでは足りない理由

量子ビット数 N は目に見える指標であるが、汎用性のある計算を支えるには、論理量子ビット数 NL と論理ゲートエラーが決定的である。オーバーヘッドを粗く表すと

Nα(d)NL

であり、d(符号距離)を増やすほど α(d) は一般に増大する。したがって、材料・界面・ノイズ機構を減らして p を下げることは、同じ NL をより小さな N で実現する方向に効く。

7.2 材料・界面・微細加工が支配する領域

多くの方式で、スケールする局面では「微細構造の揺らぎ」が性能を支配しやすい。例を挙げる。

  • 超伝導回路:界面損失や TLS、薄膜の準粒子、磁束ノイズ
  • 半導体スピン:界面トラップ、電荷雑音、バンド構造由来の谷自由度
  • 光量子:導波路損失、結合損失、検出器効率、非線形光学素子のばらつき

ここでは、サンプルごとのばらつきがシステム全体の最弱リンクになりやすいので、物性理解と製造再現性が直結する。

7.3 システム化で前面化する要素

  • 極低温冷却と熱流
  • 3次元実装、配線密度、クロストーク
  • クライオCMOSや低温増幅器、マルチプレクシング
  • モジュール接続(量子通信による分散接続など)

これらは、単体の量子ビット物理から、複合システムの電磁・熱・機械・材料信頼性へと問題が移ることを意味する。

8. 国内動向(研究拠点・施策・産業連携の例)

日本では、国家戦略や大型プログラム、研究拠点整備が進められている。代表例として以下が挙げられる。

8.1 主要プログラム・拠点の例

名称ねらい(要約)メモ
量子技術イノベーション戦略、統合イノベーション戦略国家としての量子技術推進方針を提示する政府文書として全体像がまとまっている
ムーンショット目標62050年を見据えた誤り耐性型汎用量子コンピュータの実現を掲げる研究開発の長期目標として位置づく
Q-LEAP量子情報処理・量子計測・次世代レーザー等のフラッグシップ型研究ネットワーク拠点形成と人材育成を含む
AIST G-QuAT量子・AI融合を掲げ、超伝導回路の試作や評価環境などを整備するファウンドリ・テストベッド等の整備が明記される
RIKEN RQC量子計算のフルスタック研究開発を推進する年次報告書等で活動が整理される
富士通・理研の超伝導量子コンピュータ256量子ビット超伝導量子コンピュータの開発を公表1,000量子ビット超級への言及もある
NEDO Challenge(量子)ユースケース開発や人材拡大を狙う枠組み開発環境提供の公表もある
NICT(量子ICT)量子通信・量子ネットワーク・量子セキュアクラウド等量子計算機との接続実証なども報告される

国内の動きは、ハードウェア単体に限らず、製造・評価基盤、ソフトウェア、ネットワーク化、社会実装の準備が同時に進む特徴がある。

9. 参考の数式集(短く参照するため)

9.1 ブロッホ方程式の形

二準位系の運動は、有効磁場 Ω のもと

drdt=Ω×r(rxT2,ryT2,rzrzeqT1)

のように書ける(詳細は記法とモデルに依存する)。

9.2 ゲート誤差とフィデリティ

理想演算 U と実装チャネル E の近さは平均ゲートフィデリティなどで評価される。例えば平均フィデリティ Favg

Favg=dψψ|UE(|ψψ|)U|ψ

で定義される。

10. まとめ

量子コンピュータは、ハミルトニアン制御、測定、散逸、雑音という開放量子系の物理を工学的に組み上げた計算機である。今後の焦点は、物理量子ビットの高性能化だけでなく、誤り訂正が成立する条件の下で論理量子ビットを増やし、システムとしての熱・電磁・実装制約を越えていく点にある。国内外で拠点整備と研究開発が進み、材料・界面・製造再現性と誤り訂正の要請が強く結びつく段階へ移行しつつある。

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