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計算科学で読み解くスピングラス

スピングラスは、無秩序とフラストレーションにより、平衡化が困難で準安定状態が無数に現れる磁性系である。計算科学は、相図・基底状態・自由エネルギー地形・非平衡ダイナミクスを同一の枠組みで扱い、観測量とミクロ機構を往復させるための中核手段である。

参考ドキュメント

1. 何を知りたいのか

スピングラスを扱うとき、計算で答える問いは概ね次の形に落ちる。

  • 相転移は存在するか、凍結温度 Tg はどこか
  • 秩序は何で特徴付けられるか(磁化ではなくオーバーラップ、相関長など)
  • 自由エネルギー地形はどれほど rugged か(障壁、谷の数と階層性)
  • 緩和はどれほど遅いか(エイジング、記憶、若返り、周波数依存)
  • 無秩序の起源(乱れた交換結合、乱れた異方性、ランダム場など)を同定できるか
  • 物質パラメータ(交換 Jij、異方性 K、DMI Dij、減衰 α など)が観測量にどう写るか

この「問い」を、以下の 4 層に分けて設計する

  1. 物質から有効スピン模型を作る
  2. 平衡量(熱力学)をサンプリングする
  3. 非平衡量(時間応答)を計算する
  4. 観測量から模型パラメータを推定する(逆問題)

2. モデル化:電子・原子の情報をスピングラス模型へ落とす

2.1 有効ハミルトニアン

実系を抽象化すると、多くは次の形に整理できる。

H=ijJijeiejiKi(ein^i)2i<jDij(ei×ej)iμiHei
  • ei はサイト i の単位スピン(Ising なら ei=±1
  • Jij が正負混在し、かつ幾何学的制約で全結合を同時に満たせないとき、フラストレーションが生じる
  • Kin^i の乱れ(ランダム異方性)もガラス化の駆動になり得る
  • 実材料では、化学的不規則(サイト混合、欠陥、粒界)により Jij が空間的に揺らぎ、ガラス性が現れる場合が多い

2.2 無秩序の表現:SQS、CPA、クラスタ近似

無秩序を計算に載せるには、次の二系統が有用である。

  • SQS(special quasirandom structures) 小さな周期超胞で、近接相関を“無秩序に近く”再現する構造を設計し、第一原理計算で JijK を評価する。無秩序を明示的に含むため解釈が直感的である一方、サンプル数(異なるSQS)とサイズ依存が課題になる。
  • CPA(coherent potential approximation)系(特に KKR-CPA) 無秩序平均を自己無撞着に行い、平均的な電子状態と交換相互作用を扱いやすい。組成依存の平均挙動を連続的に追える一方、局所揺らぎやクラスター性は別途評価が必要になる。

2.3 交換結合の抽出:Jij の第一原理評価

第一原理から Heisenberg 模型の Jij を得る標準的枠組みとして、グリーン関数・局所スピン密度に基づく方法(いわゆる Liechtenstein の式)が広く用いられる。Jij が得られれば、以後は統計力学(MC)やスピンダイナミクス(LLG)で温度・時間依存を扱える。

得られる解析例:

  • どの距離の Jij が正負反転しているか(RKKY 的振動の有無)
  • 乱れが入ると“強い結合と弱い結合”がどの程度分布を持つか
  • 異方性やDMIを含めたとき、凍結の性質がどう変わるか

3. 平衡計算:凍結温度と相図を出すためのサンプリング戦略

スピングラスで最も支配的なボトルネックは、平衡化(エルゴード性)の破れである。よって「どのサンプラーを設計するか」自体が研究の中心になる。

3.1 代表的サンプリング法の比較

手法何をするかメリット得意な解析注意点
単温度MC(Metropolis/heat-bath)固定 T で局所更新実装が簡単高温の熱平均、基礎量のテスト低温で凍りやすい
交換MC(レプリカ交換、parallel tempering)複数温度のレプリカを交換rugged地形で強いTg 推定、臨界解析、低温平衡量温度格子設計が重要
人口アニーリング(population annealing)多数レプリカを冷却+再重み付け並列性が高い、自由エネルギー評価と相性が良い自由エネルギー差、広域の平衡量人口サイズ・再標本化誤差
マルチカノニカルDOSを平坦化するよう重み更新障壁越えを促進DOS、エントロピー、低温量重み学習が難しい
Wang–LandauDOS推定を逐次更新DOS推定の王道DOS、熱力学量の再構成サンプル間のばらつきが大きい場合がある
再重み付け(ヒストグラム法等)近傍温度へ統計を写像追加計算を減らせるTg 近傍の高精度化有効サンプルが足りないと破綻

計算の出力としては、単なるエネルギーや磁化ではなく、スピングラス特有の量を直接評価することが重要である。

3.2 スピングラス相の指標:オーバーラップと相関長

独立に熱平衡化した 2 つのレプリカ a,b のオーバーラップを

qab=1Ni=1Nsi(a)si(b)

と定義し、分布 P(q) やモーメント q2,q4 を観測する。凍結温度近傍の有限サイズ解析には Binder 比が有効である。

U4=1q43q22

さらに、波数依存のスピングラス感受率 χSG(k) から相関長 ξL を見積もることが多い。

ξL=12sin(kmin/2)(χSG(0)χSG(kmin)1)1/2

得られる解析例:

  • U4ξL/L の交点から Tg を推定する
  • 臨界指数(ν,η など)を有限サイズスケーリングで評価する
  • P(q) の形から、低温相の状態構造(単純か階層的か)を議論する

4. 基底状態と準安定状態:最適化としてのスピングラス

低温物性や障壁議論では、基底状態(ground state)と低励起(domain wall、droplet)を精密に知りたい場面がある。このとき「統計力学」より「組合せ最適化」に寄せた計算が強力になる。

4.1 厳密解・高速解が可能な場合

2次元平面(特定の境界条件、外場なし等)では、Ising スピングラスの基底状態が最小重み完全マッチング(MWPM)へ写像でき、非常に大規模な格子でも厳密基底状態が計算可能である。その結果、剛性指数、ドメインウォールエネルギー、droplet 描像の検証などが進む。

4.2 一般次元での戦略

3次元以上や外場ありでは一般に困難になり、次の戦略を組み合わせる。

  • 分枝限定・カット平面(整数計画としての厳密化)
  • 遺伝的アルゴリズム+局所厳密化(cluster-exact 近似など)
  • 焼きなまし/交換MCを“基底探索”に特化して使う
  • 強化学習や学習ベース探索で、探索方策自体を最適化する

得られる解析例:

  • 基底状態の多重度、基底間オーバーラップ
  • 低励起の空間構造とエネルギースケール
  • エネルギー地形の ruggedness を、探索困難性として定量化する

5. 非平衡ダイナミクス:エイジング、記憶、周波数依存を計算する

5.1 二時間相関と応答

非平衡の代表量として、待ち時間 tw を含む二時間自己相関を用いる。

C(t,tw)=1Ni=1Nsi(tw)si(tw+t)

C(t,tw)tw に依存することがエイジングの指標である。さらに、摂動磁場に対する応答(線形応答・統合応答)を組み合わせ、揺動散逸関係(FDT)の破れとして非平衡性を議論することもある。

5.2 原子論的スピンダイナミクス(確率 LLG)

時間スケールを明示的に扱うには、熱雑音を含む確率 LLG(stochastic LLG)が基本となる。

dSidt=γ1+α2[Si×Hieff+αSi×(Si×Hieff)]+(thermal noise)
  • Hieff=H/Si であり、Jij,K,Dij がそのまま効く
  • 温度を入れた緩和、磁場パルス応答、AC 応答などが直接計算できる
  • 凍結が“静的”か“動的”か(観測時間に依存するか)を整理しやすい

得られる解析例:

  • AC 帯磁率 χ(ω) の周波数依存と緩和時間分布
  • 記憶・若返りプロトコルの再現(温度ステップ操作の数値実験)
  • 実空間でどこが先に凍るか(局所異方性・結合の強弱との対応)

6. 量子スピングラス:横磁場、量子揺らぎ、量子アニーリング

量子揺らぎを入れる最小形は横磁場 Ising 型である。

H=i<jJijσizσjzΓiσix
  • 平衡問題は量子モンテカルロ(QMC)やその派生で扱える
  • ただしフラストレーションや符号問題が計算を難しくする場合がある
  • 計算困難性は、そのまま量子アニーリングやイジングマシンのベンチマーク物理へ接続する

国内では、イジングモデルを計算基盤として最適化を行うコヒーレントイジングマシン(CIM)の研究開発が継続しており、スピングラス型問題が標準的な参照課題になっている。

7. 逆問題:観測量から Jij や無秩序を推定する(inverse Ising)

スピングラスでは「モデルを与えて計算する」だけでなく、「観測量からモデルを推定する」問題が重要である。典型的には、サイト磁化や相関、感受率から Jij と局所場 hi を推定する inverse Ising が該当する。

P({s})exp(i<jJijsisj+ihisi)

推定手法の例:

  • 擬似尤度(pseudo-likelihood)に基づく推定
  • 平均場近似、TAP 近似、ベリーフリーエネルギーに基づく推定
  • メッセージパッシング(susceptibility propagation など)
  • ベイズ推定(事前分布を入れて不確かさも含める)

得られる解析例:

  • “乱れの強さ”や“有効結合の距離依存”を実験データから推定する
  • 観測ノイズに対する頑健性や、推定不能領域(限界)を定量化する
  • 推定した模型で温度・周波数応答を再現し、モデル同定の妥当性を検証する

8. 機械学習との融合:加速と解釈の両面

機械学習は大きく 2 つの役割を持つ。

8.1 計算の加速

  • 強化学習で基底状態探索の方策を学習し、既存の焼きなまし等に組み込む
  • 量子モンテカルロでガイド波動関数を学習的に与え、バイアスや分散を低減する
  • 重要度サンプリングの提案分布を学習し、希な遷移(障壁越え)を引き出す

8.2 解釈の補助

  • スピン配置集合を埋め込み(PCA/UMAP等)し、温度・履歴によるクラスタ構造を可視化する
  • 学習した識別器により、従来の秩序パラメータだけでは区別しづらい相境界の指標を提案する
  • 配置から局所特徴量(フラストレーション度、局所結合強度など)を抽出し、凍結核の空間分布を議論する

注意点として、機械学習は正解を保証しないため、必ず物理量(U4ξL/LP(q)、相関関数、応答関数)への還元で検証する設計が必要である。

9. 典型ワークフロー

  1. 無秩序の起源を仮説化する
    乱れた Jij か、乱れた Ki か、クラスター凍結か、などを仕分ける。

  2. 無秩序を表現する
    SQS や CPA のいずれか(または併用)で、組成・欠陥・サイト混合をモデル化する。

  3. 第一原理から有効パラメータを抽出する
    JijK、必要なら Dij を得て、分布や距離依存を確認する。

  4. 平衡サンプリングで Tg を決める
    交換MCや人口アニーリングで U4ξL/L を評価し、有限サイズ解析を行う。

  5. 非平衡計算で時間応答を再現する
    二時間相関、AC応答、温度プロトコル(記憶・若返り)を計算し、観測時間依存を整理する。

  6. 逆問題でモデル同定を補強する
    観測量から推定した Jij と、第一原理由来の Jij を突き合わせ、整合する仮説を残す。

10. 注意点と検証項目

  • 平衡化チェック不足:交換MCでも低温で平衡化できていない場合がある
    対策として、往復ヒストグラム、レプリカ交換率、自己相関の長時間尾、独立ランの一致を確認する。
  • サンプル間揺らぎ:無秩序平均が支配的で、平均値だけでは議論が崩れる
    対策として、分布(中央値、分位点)や自己平均性の評価を併記する。
  • モデルの過剰単純化:Ising で良いのか、ベクトルスピンが必要か、異方性の乱れが本質か
    対策として、観測量(特に周波数依存)に最も効く自由度を優先して導入する。
  • クラスターガラスとの混同:スーパースピン集合体などは別スケールの凍結を起こし得る
    対策として、空間相関長と緩和時間分布を同時に評価し、単一粒子緩和との分離を行う。

まとめ

スピングラスを計算科学で読み解く要点は、無秩序の表現(SQS/CPAなど)と、rugged 地形に耐えるサンプリング(交換MC、人口アニーリング、平坦化法)を核に、平衡量(U4,ξL/L,P(q))と非平衡量(二時間相関、AC応答)を往復させることである。さらに逆問題や機械学習を組み合わせることで、観測量から乱れの起源へ遡る同定能力が上がり、スピングラスを「難しい現象」から「設計可能な物理」へ近づけることができる。

関連研究

  1. Hukushima, K. and Nemoto, K., Exchange Monte Carlo method and application to spin glass simulations, J. Phys. Soc. Jpn. 65, 1604 (1996).
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpsj/65/6/65_6_1604/_article
  2. Liechtenstein, A. I. et al., Local spin density functional approach to the theory of exchange interactions in ferromagnetic metals and alloys, JMMM 67, 65 (1987).
    https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0304885387907219
  3. Machta, J., A Monte Carlo method for rough free energy landscapes, Phys. Rev. E 82, 026704 (2010).
    https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevE.82.026704
  4. Fan, C. et al., Searching for spin glass ground states through deep reinforcement learning, Nat. Commun. 14, 725 (2023).
    https://www.nature.com/articles/s41467-023-36363-w