計算科学で読み解くスピングラス
スピングラスは、無秩序とフラストレーションにより、平衡化が困難で準安定状態が無数に現れる磁性系である。計算科学は、相図・基底状態・自由エネルギー地形・非平衡ダイナミクスを同一の枠組みで扱い、観測量とミクロ機構を往復させるための中核手段である。
参考ドキュメント
- 大関真之, スピングラス模型の臨界点と双対変換1 – 厳密解を求めて –(解説, 2010)
https://www-adsys.sys.i.kyoto-u.ac.jp/mohzeki/bk2010.pdf - Fan, C. et al., Searching for spin glass ground states through deep reinforcement learning, Nat. Commun. 14, 725 (2023).
https://www.nature.com/articles/s41467-023-36363-w - 日本電信電話株式会社, 100000スピン コヒーレントイジングマシンを実現(プレスリリース, 2021/09/30)
https://group.ntt/jp/newsrelease/2021/09/30/210930a.html
1. 何を知りたいのか
スピングラスを扱うとき、計算で答える問いは概ね次の形に落ちる。
- 相転移は存在するか、凍結温度
はどこか - 秩序は何で特徴付けられるか(磁化ではなくオーバーラップ、相関長など)
- 自由エネルギー地形はどれほど rugged か(障壁、谷の数と階層性)
- 緩和はどれほど遅いか(エイジング、記憶、若返り、周波数依存)
- 無秩序の起源(乱れた交換結合、乱れた異方性、ランダム場など)を同定できるか
- 物質パラメータ(交換
、異方性 、DMI 、減衰 など)が観測量にどう写るか
この「問い」を、以下の 4 層に分けて設計する
- 物質から有効スピン模型を作る
- 平衡量(熱力学)をサンプリングする
- 非平衡量(時間応答)を計算する
- 観測量から模型パラメータを推定する(逆問題)
2. モデル化:電子・原子の情報をスピングラス模型へ落とす
2.1 有効ハミルトニアン
実系を抽象化すると、多くは次の形に整理できる。
はサイト の単位スピン(Ising なら ) が正負混在し、かつ幾何学的制約で全結合を同時に満たせないとき、フラストレーションが生じる や の乱れ(ランダム異方性)もガラス化の駆動になり得る - 実材料では、化学的不規則(サイト混合、欠陥、粒界)により
が空間的に揺らぎ、ガラス性が現れる場合が多い
2.2 無秩序の表現:SQS、CPA、クラスタ近似
無秩序を計算に載せるには、次の二系統が有用である。
- SQS(special quasirandom structures) 小さな周期超胞で、近接相関を“無秩序に近く”再現する構造を設計し、第一原理計算で
や を評価する。無秩序を明示的に含むため解釈が直感的である一方、サンプル数(異なるSQS)とサイズ依存が課題になる。 - CPA(coherent potential approximation)系(特に KKR-CPA) 無秩序平均を自己無撞着に行い、平均的な電子状態と交換相互作用を扱いやすい。組成依存の平均挙動を連続的に追える一方、局所揺らぎやクラスター性は別途評価が必要になる。
2.3 交換結合の抽出: の第一原理評価
第一原理から Heisenberg 模型の
得られる解析例:
- どの距離の
が正負反転しているか(RKKY 的振動の有無) - 乱れが入ると“強い結合と弱い結合”がどの程度分布を持つか
- 異方性やDMIを含めたとき、凍結の性質がどう変わるか
3. 平衡計算:凍結温度と相図を出すためのサンプリング戦略
スピングラスで最も支配的なボトルネックは、平衡化(エルゴード性)の破れである。よって「どのサンプラーを設計するか」自体が研究の中心になる。
3.1 代表的サンプリング法の比較
| 手法 | 何をするか | メリット | 得意な解析 | 注意点 |
|---|---|---|---|---|
| 単温度MC(Metropolis/heat-bath) | 固定 | 実装が簡単 | 高温の熱平均、基礎量のテスト | 低温で凍りやすい |
| 交換MC(レプリカ交換、parallel tempering) | 複数温度のレプリカを交換 | rugged地形で強い | 温度格子設計が重要 | |
| 人口アニーリング(population annealing) | 多数レプリカを冷却+再重み付け | 並列性が高い、自由エネルギー評価と相性が良い | 自由エネルギー差、広域の平衡量 | 人口サイズ・再標本化誤差 |
| マルチカノニカル | DOSを平坦化するよう重み更新 | 障壁越えを促進 | DOS、エントロピー、低温量 | 重み学習が難しい |
| Wang–Landau | DOS推定を逐次更新 | DOS推定の王道 | DOS、熱力学量の再構成 | サンプル間のばらつきが大きい場合がある |
| 再重み付け(ヒストグラム法等) | 近傍温度へ統計を写像 | 追加計算を減らせる | 有効サンプルが足りないと破綻 |
計算の出力としては、単なるエネルギーや磁化ではなく、スピングラス特有の量を直接評価することが重要である。
3.2 スピングラス相の指標:オーバーラップと相関長
独立に熱平衡化した 2 つのレプリカ
と定義し、分布
さらに、波数依存のスピングラス感受率
得られる解析例:
や の交点から を推定する - 臨界指数(
など)を有限サイズスケーリングで評価する の形から、低温相の状態構造(単純か階層的か)を議論する
4. 基底状態と準安定状態:最適化としてのスピングラス
低温物性や障壁議論では、基底状態(ground state)と低励起(domain wall、droplet)を精密に知りたい場面がある。このとき「統計力学」より「組合せ最適化」に寄せた計算が強力になる。
4.1 厳密解・高速解が可能な場合
2次元平面(特定の境界条件、外場なし等)では、Ising スピングラスの基底状態が最小重み完全マッチング(MWPM)へ写像でき、非常に大規模な格子でも厳密基底状態が計算可能である。その結果、剛性指数、ドメインウォールエネルギー、droplet 描像の検証などが進む。
4.2 一般次元での戦略
3次元以上や外場ありでは一般に困難になり、次の戦略を組み合わせる。
- 分枝限定・カット平面(整数計画としての厳密化)
- 遺伝的アルゴリズム+局所厳密化(cluster-exact 近似など)
- 焼きなまし/交換MCを“基底探索”に特化して使う
- 強化学習や学習ベース探索で、探索方策自体を最適化する
得られる解析例:
- 基底状態の多重度、基底間オーバーラップ
- 低励起の空間構造とエネルギースケール
- エネルギー地形の ruggedness を、探索困難性として定量化する
5. 非平衡ダイナミクス:エイジング、記憶、周波数依存を計算する
5.1 二時間相関と応答
非平衡の代表量として、待ち時間
5.2 原子論的スピンダイナミクス(確率 LLG)
時間スケールを明示的に扱うには、熱雑音を含む確率 LLG(stochastic LLG)が基本となる。
であり、 がそのまま効く - 温度を入れた緩和、磁場パルス応答、AC 応答などが直接計算できる
- 凍結が“静的”か“動的”か(観測時間に依存するか)を整理しやすい
得られる解析例:
- AC 帯磁率
の周波数依存と緩和時間分布 - 記憶・若返りプロトコルの再現(温度ステップ操作の数値実験)
- 実空間でどこが先に凍るか(局所異方性・結合の強弱との対応)
6. 量子スピングラス:横磁場、量子揺らぎ、量子アニーリング
量子揺らぎを入れる最小形は横磁場 Ising 型である。
- 平衡問題は量子モンテカルロ(QMC)やその派生で扱える
- ただしフラストレーションや符号問題が計算を難しくする場合がある
- 計算困難性は、そのまま量子アニーリングやイジングマシンのベンチマーク物理へ接続する
国内では、イジングモデルを計算基盤として最適化を行うコヒーレントイジングマシン(CIM)の研究開発が継続しており、スピングラス型問題が標準的な参照課題になっている。
7. 逆問題:観測量から や無秩序を推定する(inverse Ising)
スピングラスでは「モデルを与えて計算する」だけでなく、「観測量からモデルを推定する」問題が重要である。典型的には、サイト磁化や相関、感受率から
推定手法の例:
- 擬似尤度(pseudo-likelihood)に基づく推定
- 平均場近似、TAP 近似、ベリーフリーエネルギーに基づく推定
- メッセージパッシング(susceptibility propagation など)
- ベイズ推定(事前分布を入れて不確かさも含める)
得られる解析例:
- “乱れの強さ”や“有効結合の距離依存”を実験データから推定する
- 観測ノイズに対する頑健性や、推定不能領域(限界)を定量化する
- 推定した模型で温度・周波数応答を再現し、モデル同定の妥当性を検証する
8. 機械学習との融合:加速と解釈の両面
機械学習は大きく 2 つの役割を持つ。
8.1 計算の加速
- 強化学習で基底状態探索の方策を学習し、既存の焼きなまし等に組み込む
- 量子モンテカルロでガイド波動関数を学習的に与え、バイアスや分散を低減する
- 重要度サンプリングの提案分布を学習し、希な遷移(障壁越え)を引き出す
8.2 解釈の補助
- スピン配置集合を埋め込み(PCA/UMAP等)し、温度・履歴によるクラスタ構造を可視化する
- 学習した識別器により、従来の秩序パラメータだけでは区別しづらい相境界の指標を提案する
- 配置から局所特徴量(フラストレーション度、局所結合強度など)を抽出し、凍結核の空間分布を議論する
注意点として、機械学習は正解を保証しないため、必ず物理量(
9. 典型ワークフロー
無秩序の起源を仮説化する
乱れたか、乱れた か、クラスター凍結か、などを仕分ける。 無秩序を表現する
SQS や CPA のいずれか(または併用)で、組成・欠陥・サイト混合をモデル化する。第一原理から有効パラメータを抽出する
、 、必要なら を得て、分布や距離依存を確認する。 平衡サンプリングで
を決める
交換MCや人口アニーリングでと を評価し、有限サイズ解析を行う。 非平衡計算で時間応答を再現する
二時間相関、AC応答、温度プロトコル(記憶・若返り)を計算し、観測時間依存を整理する。逆問題でモデル同定を補強する
観測量から推定したと、第一原理由来の を突き合わせ、整合する仮説を残す。
10. 注意点と検証項目
- 平衡化チェック不足:交換MCでも低温で平衡化できていない場合がある
対策として、往復ヒストグラム、レプリカ交換率、自己相関の長時間尾、独立ランの一致を確認する。 - サンプル間揺らぎ:無秩序平均が支配的で、平均値だけでは議論が崩れる
対策として、分布(中央値、分位点)や自己平均性の評価を併記する。 - モデルの過剰単純化:Ising で良いのか、ベクトルスピンが必要か、異方性の乱れが本質か
対策として、観測量(特に周波数依存)に最も効く自由度を優先して導入する。 - クラスターガラスとの混同:スーパースピン集合体などは別スケールの凍結を起こし得る
対策として、空間相関長と緩和時間分布を同時に評価し、単一粒子緩和との分離を行う。
まとめ
スピングラスを計算科学で読み解く要点は、無秩序の表現(SQS/CPAなど)と、rugged 地形に耐えるサンプリング(交換MC、人口アニーリング、平坦化法)を核に、平衡量(
関連研究
- Hukushima, K. and Nemoto, K., Exchange Monte Carlo method and application to spin glass simulations, J. Phys. Soc. Jpn. 65, 1604 (1996).
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpsj/65/6/65_6_1604/_article - Liechtenstein, A. I. et al., Local spin density functional approach to the theory of exchange interactions in ferromagnetic metals and alloys, JMMM 67, 65 (1987).
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0304885387907219 - Machta, J., A Monte Carlo method for rough free energy landscapes, Phys. Rev. E 82, 026704 (2010).
https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevE.82.026704 - Fan, C. et al., Searching for spin glass ground states through deep reinforcement learning, Nat. Commun. 14, 725 (2023).
https://www.nature.com/articles/s41467-023-36363-w