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統計物理学の初歩

統計物理は、膨大な自由度をもつ多体系のミクロな状態の数え上げと確率を用いて、温度・圧力・比熱・磁化などのマクロな法則を導く理論である。平衡の理論(アンサンブル、分配関数、自由エネルギー)を軸に、ゆらぎ・応答・相転移へ自然につながり、凝縮系物理の共通言語を与える分野である。

参考ドキュメント

  1. 京都大学OCW『統計物理学』講義ノート(PDF)
    https://ocw.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2010/04/2010_toukeibutsurigaku_2.pdf
  2. 東京大学 理学部 物理学科 熱力学 講義ノート(自由エネルギーと分配関数の関係の整理を含む)(PDF)
    https://cat.phys.s.u-tokyo.ac.jp/lecture/TD_22/Thermodynamics_0508.pdf
  3. 理化学研究所 プレスリリース「量子観測に誘起されたスペクトル相転移の発見」(2025-01-09)
    https://www.riken.jp/press/2025/20250109_1/index.html

1. なぜ統計物理が必要か:多体系と情報の圧縮

原子・分子・電子・スピンなどの自由度が 1023 個程度ある系を、ニュートン方程式やシュレーディンガー方程式で厳密に追跡することは現実的でない。ところが、観測される量は温度 T、圧力 P、体積 V、磁化 M、比熱 C など少数のマクロ変数で記述される。統計物理は「ミクロの詳細を捨て、ミクロ状態の集合の統計(確率)でマクロを決める」ための枠組みである。

このときの基本姿勢は次の2点に集約できる。

  • ミクロ状態(microstate)を定義し、そのエネルギー E や粒子数 N などを与える。
  • 系の制約(孤立、熱浴と接触、粒子出入りの有無)に応じた確率分布(アンサンブル)を定め、平均値・ゆらぎを計算する。

2. 確率の言葉:期待値・分散・大数の法則

統計物理の計算は「確率分布 p(x) の下での平均」を中心に進む。離散状態 α に対しては pα、連続変数 x に対しては確率密度 p(x) を用い、

  • 正規化:αpα=1、または p(x)dx=1
  • 期待値:A=αpαAα、または A=p(x)A(x)dx
  • 分散:var(A)=(AA)2

が基本である。

多体系で重要なのは、自由度が増えると相対ゆらぎが小さくなる(自己平均化)という現象である。例えば独立な寄与が多数加算されるとき、平均は粒子数 N に比例して大きくなる一方、標準偏差は N に比例しやすく、相対ゆらぎ 1/N が小さくなる。この性質が「少数のマクロ変数で安定に記述できる」背景である。

3. ミクロカノニカル(孤立系):状態数とボルツマンエントロピー

3.1 等確率の原理

孤立系(外界とエネルギー交換しない)を考える。エネルギーが E(幅 δE を含む)にあるミクロ状態の数を Ω(E) とする。ミクロカノニカル分布では、許されたミクロ状態は等しい確率をもつと仮定する。

3.2 ボルツマンエントロピー

エントロピーは「状態数の対数」で定義される:

S(E)=kBlnΩ(E)

ここで kB はボルツマン定数である。対数が本質的なのは、独立な系 A,B の合成で状態数が乗法的に増える(ΩAB=ΩAΩB)一方、エントロピーは加法的(SAB=SA+SB)になるためである。

3.3 温度の定義(平衡の条件)

熱力学的温度は、エントロピーのエネルギー微分で定義される:

1T=(SE)V,N

2つの系を弱く接触させると、全エネルギー Etot=EA+EB は一定であり、平衡は Stot(EA)=SA(EA)+SB(EtotEA) を最大にする条件で決まる。微分すると

(SAEA)=(SBEB)

すなわち TA=TB が平衡条件である。

4. カノニカル(熱浴接触):ボルツマン分布と分配関数

4.1 熱浴と確率

系が巨大な熱浴と弱く接触し、温度 T が固定される状況を考える(カノニカルアンサンブル)。ミクロ状態 α のエネルギーを Eα とすると、確率は

pα=eβEαZ,β=1kBT

で与えられる。ここで

Z=αeβEα

が分配関数(canonical partition function)である。分配関数は「平衡の全情報が詰まった生成関数」であり、平均エネルギー・比熱・自由エネルギーなどが微分で得られる。

4.2 自由エネルギーと熱力学量

ヘルムホルツ自由エネルギーは

F(T,V,N)=kBTlnZ

で定義される。ここから主要関係が導かれる。

  • 内部エネルギー
U=E=lnZβ
  • エントロピー
S=(FT)V,N
  • 圧力
P=(FV)T,N

この形は、熱力学と統計力学が「自由エネルギーを共有する」ことを示す。

5. 大正準(粒子数も変動):化学ポテンシャルと大分配関数

粒子が出入りできる系(リザーバと接触)では、粒子数 N が揺らぐ。大正準アンサンブルでは、ミクロ状態 (N,α) の確率は

pN,α=eβ(EN,αμN)Ξ

であり、μ は化学ポテンシャルである。大分配関数は

Ξ=Nαeβ(EN,αμN)

である。ここからグランドポテンシャル(大正準自由エネルギー)

Ω(T,V,μ)=kBTlnΞ

が定義され、理想気体などでは Ω=PV が成り立つ。

6. 熱力学ポテンシャルとルジャンドル変換:自然変数の表

統計物理では、どのアンサンブルを使うかは「何が固定されるか」に対応する。熱力学ポテンシャルはルジャンドル変換で相互に関係する。

ポテンシャル定義自然変数微分形
内部エネルギー UU(S,V,N)S,V,NdU=TdSPdV+μdN
ヘルムホルツ FF=UTST,V,NdF=SdTPdV+μdN
ギブズ GG=UTS+PVT,P,NdG=SdT+VdP+μdN
グランド ΩΩ=UTSμNT,V,μdΩ=SdTPdVNdμ

「自然変数で微分すると共役量が出る」という見通しが、計算と解釈を一気に楽にする。

7. ゆらぎと応答:分散が物性係数を与える

分配関数は平均だけでなく、ゆらぎ(分散)も与える。重要な関係として、エネルギーゆらぎと比熱の関係がある。

7.1 エネルギーゆらぎと比熱

var(E)=E2E2=kBT2CV

ここで CV=(U/T)V,N である。つまり、比熱はエネルギーのゆらぎの大きさである。

7.2 粒子数ゆらぎと圧縮率(大正準)

大正準では

var(N)=kBT(Nμ)T,V

が成り立つ。圧縮率や感受率が「ゆらぎの強さ」と結びつくのが統計物理の強みである。

7.3 磁化ゆらぎと磁化率(基本例)

磁場 B 下で磁化 M をもつ系では(適切な定義の下で)

χ=(MB)T=βvar(M)

の形が現れる。相転移近傍で感受率が発散するのは、秩序変数のゆらぎが巨大化するためである。

8. 基本モデルで身につける:分配関数から物性へ

8.1 二準位系(ショットキー比熱)

エネルギー 0Δ をもつ二準位系の分配関数は

Z=1+eβΔ

内部エネルギーは

U=ΔeβΔ1+eβΔ

比熱 CV=U/T は温度に対し山(ショットキーピーク)を示す。少数自由度の励起が熱容量に現れる最も単純な例である。

8.2 独立スピン常磁性(キュリー則)

スピン 1/2 が磁場 B によりエネルギー μB をもつとき、1スピンの分配関数は

z=2cosh(βμB)

N 個独立なら Z=zN。磁化は

M=Nμtanh(βμB)

弱磁場・高温では tanhxx より

χ=MBNμ2kBT

となり、キュリー則が得られる。

8.3 量子調和振動子とフォノン

量子調和振動子の準位は En=ω(n+1/2)。分配関数は

Z=n=0eβω(n+1/2)=eβω/21eβω

平均エネルギーは

U=ω(12+1eβω1)

となり、ボース分布の構造が自然に現れる。固体の格子振動(フォノン)は多数の調和振動子の集合として近似され、比熱の温度依存(アインシュタイン模型、デバイ模型)へつながる。

8.4 古典理想気体(量子補正も含む)

理想気体では「粒子間相互作用なし」を前提に分配関数が計算でき、状態方程式 PV=NkBT が導かれる。古典近似が破れる低温・高密度では、熱ド・ブロイ波長

λT=h2πmkBT

が重要なスケールになる。量子統計(フェルミ/ボース)はこの延長線上に位置づく。

9. 量子統計の入口:フェルミ分布とボース分布

粒子が多数ある量子系では「粒子の区別不可能性」と「交換対称性」が決定的である。平均占有数は

  • フェルミ粒子(パウリ原理):
n(ε)=1eβ(εμ)+1
  • ボース粒子:
n(ε)=1eβ(εμ)1

で与えられる。金属の電子比熱が低温で CT となること、格子比熱が低温で CT3 となることは、これらの分布と状態密度の組合せとして理解される。

10. 相転移と秩序:自由エネルギーの非解析性

10.1 相転移の特徴

相転移は、マクロ変数が温度や圧力の変化に対して非連続あるいは急峻に変化する現象である。熱力学的には自由エネルギーの導関数の不連続性として分類される(一次・二次など)。統計物理的には、熱力学極限(N、密度一定)で自由エネルギーが非解析になることが本質である。

10.2 秩序変数とギンズブルグ=ランダウの考え方

相転移を記述する基本道具は秩序変数(例:強磁性の磁化 m、超伝導の秩序パラメータ ψ)である。自由エネルギー密度を

f(m)=f0+a(T)m2+bm4hm+

と展開すると、a(T) の符号が変わる温度で m0 が安定になり、対称性の破れが記述される。これは平均場的であるが、相転移の「言葉」を与える。

10.3 イジング模型(相互作用の基本模型)

スピン si=±1 の格子模型として

H=Jijsisjhisi

がある。相互作用 J と温度 T の競合で秩序が生まれる。正確解や数値計算(モンテカルロ)を通じて、臨界現象・普遍性を学ぶ標準的題材である。

10.4 相関関数と相関長

相転移近傍ではゆらぎが空間的に長距離相関をもつ。スピン系なら

C(r)=s(0)s(r)s2

が指標であり、相関長 ξ が大きくなる。臨界点で ξ に向かい、スケーリング則や臨界指数が現れる。

11. 非平衡統計物理への入口:確率過程とエントロピー生成

平衡統計は強力である一方、現実の多くは駆動され、流れ、緩和し、定常状態にある。非平衡統計物理は、平衡の道具(分配関数・自由エネルギー)を手がかりにしながら、時間発展と不可逆性を扱う。

11.1 マスター方程式と詳細釣り合い

離散状態 i の確率 Pi(t) が遷移率 Wij で変化するとき、

dPidt=j[WijPjWjiPi]

である。平衡分布 Pieq に対し

WijPjeq=WjiPieq

が成立すれば詳細釣り合いであり、確率流が打ち消し合って平衡に落ち着く。

11.2 線形応答とゆらぎ散逸の関係

外場に対する応答は、平衡状態のゆらぎ(相関関数)で与えられるという構造がある。古典・量子で定式化は異なるが、ゆらぎと散逸が結びつく点が重要である。凝縮系では、Kubo公式やGreen–Kubo関係が輸送係数(電気伝導度、粘性、熱伝導)を相関関数の時間積分として与える。

11.3 揺らぎ定理と仕事関係式

平衡から遠い過程でも、仕事 W と自由エネルギー差 ΔF を結ぶ等式が成り立つことがある。代表例として

eβW=eβΔF

(Jarzynski等式)が知られる。これらは非平衡過程から平衡量を推定する道を開く。

11.4 観測の難しさ

非平衡量子系では「観測(測定)」がダイナミクスを変え、相転移様の現象を生むことが議論されている。理研のプレスリリースでは、観測下の量子系におけるスペクトル相転移が報告され、平衡の相転移との類似が強調されている。

12. 計算と数値:統計物理が得意とする近似

解析的に解けない系は多いが、統計物理には「近似の言語」が整っている。

  • 平均場近似:相互作用を平均的な場に置き換える
  • 摂動と展開:弱い相互作用や高温/低温で展開する
  • 変分法:自由エネルギーの上界・下界を使う
  • モンテカルロ法:重要度サンプリングで平衡平均を数値評価する
  • 有限サイズ解析:サイズ依存から臨界点・指数を推定する

これらは凝縮系(磁性、超伝導、強相関)でも標準道具であり、現象の階層(ミクロ→有効模型→マクロ応答)を行き来する助けになる。

まとめと展望

統計物理の初歩は、エントロピー S=kBlnΩ と、分配関数 Z(あるいは Ξ)を中心に据えると見通しが良い。自由エネルギー F=kBTlnZ から状態方程式・比熱・感受率が系統的に得られ、さらにゆらぎが応答係数を与えることで、相転移近傍の巨大ゆらぎまで一貫して理解できる。

展望として、平衡統計の枠組みは、非平衡(駆動・観測・開放量子系)へ拡張されつつあり、相転移や普遍性が時間発展の中にも現れることが強く意識されている。凝縮系物理、量子情報、ソフトマター、さらには学習アルゴリズムの解析にまで統計物理的発想が浸透しており、初歩の概念(アンサンブル・分配関数・ゆらぎ)が多領域をつなぐ基盤として機能し続ける。

参考文献・資料