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量子スピングラス入門

量子スピングラスは、無秩序とフラストレーションが作る多谷のエネルギー地形に、量子ゆらぎ(トンネル)が重なることで生じる秩序と緩和の物理である。古典スピングラスの概念(履歴依存・エイジング・非平衡)を保ちつつ、量子相転移やエンタングルメント、実時間量子ダイナミクスが前面に出てくる対象である。

参考ドキュメント

1. 量子スピングラスとは何か

スピングラスは、相互作用の符号・強さがランダムで、しかも相互作用同士が同時に満たせない(フラストレーション)ために、低温でスピン配列が凍結するが長距離秩序(単純な強磁性や反強磁性)を持たない相である。

量子スピングラスでは、さらに非可換な項(典型例は横磁場)がハミルトニアンに入り、古典的な「熱ゆらぎ」に加えて「量子ゆらぎ」が凍結を壊したり、量子相転移を引き起こしたりする。したがって温度Tだけでなく、横磁場強度Γなどが相を制御するパラメータになる。

典型的に次の二つを同時に議論する必要がある。

  • 静的側面:基底状態や有限温度平衡の相(量子常磁性相、スピングラス相など)
  • 動的側面:緩和・エイジング・メモリ効果、量子コヒーレンスと環境散逸の競合

2. 代表的モデルとハミルトニアン

2.1 横磁場イジング・スピングラス(Transverse-Field Ising Spin Glass)

量子スピングラスの最標準モデルである。

H=ijJijσizσjzihizσizΓiσix
  • Jij:ランダム相互作用(符号も大きさも乱れることが多い)
  • hiz:縦磁場(系によってはランダム場が誘起される)
  • Γ:横磁場(スピン反転を起こし量子ゆらぎを導入)
  • σix,z:パウリ行列

極限での見通し

  • Γ0:古典イジングスピングラス(多谷の自由エネルギー地形、凍結とエイジング)
  • Γが十分大:量子常磁性相(x方向へそろう傾向、z成分は無秩序)
  • その間でT=0の量子相転移が起こり得る

相互作用の幾何学

  • 無限範囲型(Sherrington–Kirkpatrick, SK):Jijが全結合でガウス乱数
  • 有限次元短距離型(Edwards–Anderson, EA):格子上の近接結合がランダム
  • 双極子相互作用型:実材料では双極子相互作用が支配的な場合がある

2.2 乱れた量子ヘisenberg系・量子ロター・大N極限

イジングより一般の回転対称性を持つ量子スピン(あるいは量子ロター)に無限範囲ランダム結合を入れ、N(あるいはM)で可解になるクラスがある。これらは量子臨界や量子無秩序相の解析に向く。

量子ロター型の典型イメージ

  • 連続自由度(ロター)をランダム結合で無限範囲に結ぶ
  • 量子無秩序相とスピングラス相を同一方程式で扱え、臨界挙動が整理しやすい

2.3 Sachdev–Ye(SY)型とSYKモデルとの接続

量子スピングラス研究は、無限範囲ランダム量子模型の文脈で、SY(乱れた量子スピン)やSYK(乱れたマヨラナ多体系)へ連なっている。

  • SYKは、強いエンタングルメントと量子カオス、有限の零温エントロピーなど、通常の凝縮系とは異なる特徴を持つ
  • それでも「無限範囲ランダム結合」「自己無撞着方程式で支配される」という意味で、量子スピングラスの延長線上に位置づけられる

この系列は、奇妙な金属やホログラフィーとの類推など、現代的な理論展開とも接続している。

3. オーダーパラメータと観測量

3.1 Edwards–Anderson(EA)秩序パラメータ

古典スピングラスの典型秩序指標は、時間平均(あるいは熱平均)した局所磁化の二乗である。量子でもz成分の凍結を見るなら

qEA=1Ni=1N[σiz2]dis

ここで[]disは乱れ平均である。量子ではσizの定義や測定が、温度・散逸・有限サイズで繊細になる(基底状態縮退や、実験での微小縦磁場の存在など)点に注意が必要である。

より本質的には、時間相関(imaginary time)を使う表現も重要になる。

3.2 重なり分布(overlap)とレプリカの言語

スピングラスでは、異なる平衡状態(谷)間の類似度を測る重なり

q=1Ni=1Nsi(1)si(2)

を導入し、その分布P(q)を議論する。量子の場合はsiの代わりにスピン演算子や経路(後述のSuzuki–Trotterで出てくる“虚時間方向”)が絡み、定義が拡張される。

3.3 動的指標

量子スピングラスでは、静的秩序だけでなくダイナミクスが主役になる。

  • 自己相関 C(t)=1Niσiz(t)σiz(0)
  • 応答関数・ゆらぎ散逸関係の破れ
  • エイジング(待ち時間twに依存する緩和)
  • エネルギーギャップの分布、低励起の密度
  • エンタングルメントエントロピー、量子相関

4. 量子ゆらぎがもたらす物理

4.1 量子相転移(T=0

横磁場Γが増えると、z方向の凍結が崩れ、量子常磁性相へ遷移し得る。スピングラス相と量子常磁性相の境界は、有限次元では特に非自明で、次の要素が絡む。

  • 乱れとフラストレーションによる多谷構造
  • Γによるトンネル(谷間遷移)
  • 有限次元では希少領域(Griffiths領域)や無限ランダムネス的挙動が出やすい場合がある

4.2 量子的“凍結”と実時間の難しさ

古典では熱活性化で谷を越えるが、量子ではトンネルで越える可能性がある。一方で、実材料・実デバイスでは環境との結合が避けられず、

  • コヒーレンスが失われる(デコヒーレンス)
  • トンネルが抑制されたり、逆に散逸が緩和を助けたりする などが起きる。したがって閉じた量子系の理論と、開放系の現象論を往復する必要がある。

5. 計算・解析手法(理論から数値へ)

量子スピングラスは、乱れ平均と量子多体が重なるため、解析と数値の両輪が必須である。

5.1 Suzuki–Trotter分解とd+1次元古典写像

横磁場イジング模型は、分配関数

Z=TreβH

にSuzuki–Trotter分解を適用すると、虚時間方向にM枚スライスを持つ古典イジング模型に写像できる。概念的に

  • d次元の量子模型
  • (d+1)次元の古典模型(追加次元が虚時間)

になる。これにより世界線型量子モンテカルロ(QMC)が可能になる。

重要点

  • M(Trotter数を増大)で厳密になる
  • 乱れ平均はサンプル平均で行う必要があり、統計コストが大きい
  • 非stoquastic項やフラストレーションの種類によってはサイン問題が出る

5.2 量子モンテカルロ(QMC)

世界線QMCにより、有限温度・大サイズの静的量を計算できる。

  • 秩序指標 qEA、相関関数、感受率
  • 有限サイズスケーリングによる相境界・臨界指数推定
  • 虚時間相関からのギャップ推定(解析接続が絡む)

ただし量子スピングラスは緩和が遅く、乱れ平均も重いため、サンプリングの自己相関とエラーバー評価が特に重要である。

5.3 厳密対角化(ED)・テンソルネットワーク・量子回路計算

  • ED:小サイズで基底状態と励起スペクトル、エンタングルメントを厳密に得る
  • テンソルネットワーク:1次元や低エンタングルメント領域で有効。ただし乱れ・臨界でエンタングルメントが増えると難化する
  • 量子回路(VQE等):NISQ機で小~中規模の乱れ系を模擬し、ガラス的ダイナミクスの片鱗を探索する試みが進む

5.4 平均場・レプリカ・キャビティ・大N

無限範囲モデルでは、乱れ平均を解析的に扱いやすい。

  • SK型横磁場イジング:レプリカ対称性の破れ(RSB)問題の量子拡張
  • SY/SYK:自己無撞着(Schwinger–Dyson型)方程式で臨界性や量子カオスを解析
  • 実時間非平衡:Keldysh形式で応答・散逸・エイジングを扱う

6. 実材料システムの例

6.1 希薄化双極子イジング磁性体 LiHoxY1xF4

Ho3+が実効イジングスピンとして働き、Y3+で希薄化すると、双極子相互作用に基づくスピングラス領域が現れ得る。c軸に垂直な横磁場をかけることで量子ゆらぎ(スピン反転)が導入され、横磁場イジング模型の物質実現として長く研究されている。

  • スピングラス転移の存在、古典領域と量子領域の差
  • 希薄極限で提起された“antiglass”問題など、未解決の論点

量子スピングラスが「模型」から「物質」へ降りる際に何が起きるか(双極子長距離性、超微細相互作用、誘起ランダム場など)を学ぶ代表例である。

6.2 量子アニーリング・量子シミュレーション

横磁場イジング型の系は、組合せ最適化をイジングハミルトニアンに写像して探索する量子アニーリングと直結しており、スピングラスは典型的に難しいインスタンスを提供する。

  • stoquastic横磁場はQMCで模擬しやすいが、より強いドライバ(non-stoquastic)ではサイン問題が出やすい
  • 実デバイスは開放系であり、環境・ノイズが結果に強く影響する

ゲート型量子計算でも、横磁場イジングや乱れ模型を量子回路で模擬し、ガラス的ダイナミクスの指標を観測する方向が伸びている。

7. 応用と周辺分野との接続

7.1 計算困難性と最適化

スピングラスは多谷地形を持ち、基底状態探索が一般に困難であることから、最適化の難しさと磁性模型の物理が強く結びついている。

  • イジング写像により、制約充足・MaxCut等の問題がスピングラス型ハミルトニアンになる
  • 量子アニーリングは、Γを徐々に減らすことで基底状態(解)に近づくことを狙う

7.2 量子多体系の普遍概念の供給源

量子スピングラスは、乱れ・量子臨界・非平衡という要素をまとめて含むため、物質固有の議論だけでなく、普遍的な概念(臨界性、エンタングルメント、量子カオス、ホログラフィー類推など)の供給源にもなっている。

8. 今後の学術的課題と展望

課題1:有限次元での“真正の量子スピングラス相”の確立

  • 無限範囲では解析が進む一方、有限次元・短距離では数値・実験の両面で決着が難しい
  • 希少領域・ランダム場効果・長距離相互作用(双極子)などが絡む

課題2:実時間量子ダイナミクスと開放系

  • エイジング・メモリ効果を量子でどう定義し、どの観測量で測るか
  • 量子デコヒーレンスとガラス的遅さの相互作用をどう整理するか

課題3:計算手法の壁(サイン問題、乱れ平均、スケール)

  • QMCが得意な領域と苦手な領域(non-stoquasticなど)の峻別
  • 乱れ平均と臨界スケーリングを同時に満たす計算設計
  • MLポテンシャルや生成モデルのような「物質側」ツールと、量子多体計算法の統合

課題4:量子デバイスを“物理実験装置”として使う方法論

  • 量子アニーラ/量子回路を、量子スピングラスの相転移・ダイナミクス検証に使う場合、ノイズや較正誤差を含めた解析枠組みが必要になる
  • 物理量(オーダーパラメータ、相関、応答)を回路観測へ落とす翻訳が鍵である

展望として、無限範囲ランダム量子模型(SY/SYK)で得られた普遍的知見と、有限次元物質系(双極子イジング磁性体など)での実証が往復し、さらに量子デバイス上での模擬実験がそれを補完する、という三角形が強くなると見込まれる。

9. まとめ

量子スピングラスは、無秩序・フラストレーションが作る多谷構造に量子ゆらぎが重なって生じる相とダイナミクスの物理である。横磁場イジング模型を中心に、QMC写像・平均場理論・量子デバイス模擬・実材料(LiHo_{x}Y_{1-x}F_{4})が相補的に進展しており、有限次元での相の確立、実時間非平衡、計算法の壁を越えることが今後の中心課題である。

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