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中性子回折・小角中性子散乱の基礎と応用

中性子回折と小角中性子散乱(Small-Angle Neutron Scattering, SANS)は、原子配列だけでなくナノ〜マイクロスケールの不均一構造や磁気構造を、バルクのまま非破壊で観察できる散乱手法である。X線や電子線と相補的なコントラストと高い透過力を持つため、金属材料、ソフトマター、生体高分子、エネルギー材料に広く用いられている。

参考ドキュメント

  1. 野田幸男, 「中性子回折による構造解析の基礎」, RADIOISOTOPES 59 (2010).
  2. 日本原子力研究開発機構 JRR-3 公式ページ:中性子実験装置・SANS-J 概要
    https://jrr3.jaea.go.jp/jrr3e/2/21.html
  3. J-PARC MLF BL15 TAIKAN(小角・広角中性子散乱装置)
    https://mlfinfo.jp/en/bl15/

1. 中性子散乱による構造解析の位置づけ

中性子回折・SANSはいずれも「中性子波の干渉」を利用し、散乱ベクトル空間で構造情報を読む手法である。中性子は電荷を持たないが、

  • 原子核との強い短距離相互作用(核散乱)
  • 中性子自体が持つ磁気モーメントと電子スピンとの相互作用(磁気散乱)
    を通じて物質と相互作用する。

X線と比較した特徴をまとめると次のようになる。

観点X線散乱中性子散乱
主な相互作用電子雲(電荷分布)原子核(散乱長)+磁気モーメント
散乱強度のZ依存Zにほぼ単調増加同位体・核種ごとに非単調、軽元素に敏感
透過性重元素で吸収が大きい多くの物質で高透過、バルク測定に適する
水素感度低い高い(H/Dコントラストが大きい)
磁気感度間接・制限付き直接的(静的・動的磁気に感度)

このため、中性子回折は

  • 軽元素(H, Li, B, C, N など)の位置決定
  • 同位体コントラストを利用した分布解析
  • バルク試料の構造・残留応力計測
  • 磁気構造解析
    に適している。一方、SANSは nm〜数百 nm スケールの不均一構造や磁気テクスチャに感度を持つ。

2. 中性子回折の基本

2.1 Bragg条件と散乱ベクトル

波数ベクトルを入射 ki、散乱後 kf とすると、散乱ベクトルは

Q=kfki,Q=|Q|=4πλsinθ

であり、Bragg則

2dsinθ=nλ

を満たすときにブラッグ反射が生じる。ここで d は面間隔、λ は中性子波長である。結晶の逆格子ベクトル GQ が一致するときに干渉が強め合うという逆格子の描像は、X線回折と同一である。

2.2 核構造因子と中性子散乱長

中性子の核散乱強度は「散乱長」bj で記述される。原子位置 rj、デバイワラー因子 eWj を用いると、核構造因子は

FN(Q)=jbjeWjeiQrj

で与えられる。散乱長 bj は同位体ごとに異なり、原子番号には単純には比例しない。この性質により、

  • 軽元素(特に水素・リチウム)を重元素中でも検出しやすい
  • 近接元素の識別や同位体ラベリングが可能
    という利点が生じる。

2.3 磁気構造因子

磁気散乱は電子スピン・軌道に由来する磁化分布のフーリエ成分に比例し、構造因子は概略

FM(Q)jfj(Q)eWjeiQrj[mj(mjQ^)Q^]

となる。ここで fj(Q) は磁気フォームファクター、mj はサイト j の秩序モーメント、Q^=Q/Q である。Q に平行な磁化は寄与しないため、反射ごとの強度比が磁気モーメントの向きの決定に強い制約を与える。

3. 粉末中性子回折と単結晶中性子回折

中性子回折は、粉末・単結晶のいずれにも適用できるが、得られる情報と要求される試料条件が異なる。

手法観測量主な用途利点制約
粉末中性子回折(NPD)1次元回折パターン I(2θ)結晶構造、配位数、相分率、磁気秩序の有無試料調製が容易、リートベルト解析が確立方位情報が平均化され、複雑な磁気構造の一意性は弱い
単結晶中性子回折3次元逆空間での点ごとの強度精密原子位置、磁気構造、弱い超構造・変調反射ごとの独立性が高く、構造モデルへの拘束が強い大型単結晶が必要で、測定時間も長くなりやすい

粉末法は「相・平均構造」を把握する枠組みとして強く、一方単結晶法は複雑な秩序や微弱な成分の決定に力を発揮する。

4. 中性子回折で得られる代表的な情報

中性子回折から得られる代表的な情報と、X線回折と比較した相対的な得手不得手を整理する。

物理量中性子回折の得意度特徴的な利点
原子位置(重元素)高い高角側まで強い反射強度が得られ、高精度構造決定が可能
軽元素位置(H, Li 等)非常に高い散乱長が大きく、X線では見えにくい水素位置を決定できる
同位体分布高い散乱長の同位体依存性により、同位体コントラスト実験が可能
磁気構造非常に高い中性子の磁気モーメントにより、静的秩序・スピン配列を直接決定できる
残留応力・ひずみ高い深部まで透過するため、大型構造材の内部応力測定に適する

残留応力測定では、格子面間隔 dhkl の変化を通じてひずみテンソルを評価し、構造物内部の応力分布を非破壊で測定できる点が中性子の強みとなる。

5. 小角中性子散乱(SANS)の幾何学と測定原理

5.1 q空間と測定レンジ

SANSは、入射中性子と散乱中性子の角度差を数度以下の小角に限定して測定する散乱法である。散乱ベクトルの大きさは

q=4πλsin(θ2)2πλθ

であり、q に対応する実空間の特徴長さは

L2πq

で見積もられる。すなわち、SANSは q1031 \AA1 の範囲で、数 nm〜数百 nm 程度の不均一構造に感度を持つ。:contentReference[oaicite:7]

SANS強度 I(q) は、散乱長密度 ρ(r) の不均一性のフーリエ変換の二乗平均に対応し、

I(q)|Δρ(r)eiqrdr|2

と表される。ここで Δρ(r) は周囲との散乱長密度差(コントラスト)である。

5.2 SANS装置の基本構成

SANS装置は、波長選別と長距離飛行空間を組み合わせて小角散乱を測定する。代表的な構成は以下の通りである。

  1. 低エネルギー中性子源(冷中性子など)
  2. コリメーション系(スリット・ガイド)
  3. 波長選別(モノクロメータまたはTOF方式)
  4. 試料位置(環境装置:温度、磁場、せん断、圧力など)
  5. 長い飛行管と2次元検出器(通常は数 m〜20 m 程度)

日本では、J-PARC MLFのBL15 TAIKAN(小角・広角中性子散乱装置)や、研究炉JRR-3のSANS-J/SANS-J-IIなどが代表的なSANS装置として整備されている。

6. SANSで見える長さスケールと代表的な対象

SANSは、「中距離秩序」「ナノ〜サブマイクロの不均一」を扱うことに強みを持つ。代表的な対象は次の通りである。

分野構造スケール代表的な対象得られる情報
ソフトマター数 nm〜数百 nmミセル、ポリマー鎖、ブロックコポリマー、ゲル網目形状、サイズ、凝集状態、相分離構造
生体高分子数 nm〜数十 nmタンパク質、複合体、膜小胞溶液中での形状、会合状態、相互作用
金属・磁性体数 nm〜数百 nm析出物、空孔クラスター、磁区構造、スキルミオン格子粒径分布、濃度ゆらぎ、磁気テクスチャの周期
エネルギー材料数 nm〜数百 nm燃料電池膜、電極多孔体、ハイドライド細孔構造、相分離、界面構造

特に磁性体では、磁気SANSにより磁区サイズ、磁気ナノ構造、スキルミオン格子の周期などを、バルク試料のまま評価できる点が重要である。

7. SANSデータ解析

7.1 Guinier領域:サイズの評価

小さい q 領域では、散乱強度はおおむね

I(q)I(0)exp(Rg2q23)

と近似される(Guinier近似)。ここで Rg は回転半径であり、粒子のサイズの指標である。lnI(q) vs q2 をプロットすると直線となり、その傾きから Rg を評価できる。

7.2 Porod領域:界面の粗さ

大きな q 領域では、明瞭な界面を持つ2相系では

I(q)q4

のPorod則が成り立つ。指数のずれは界面の粗さやフラクタル性を反映しており、I(q)q4 vs q のプロットで界面特性を評価することができる。

7.3 フォームファクターと構造因子

一般に、分散系の散乱は

I(q)=ϕ(Δρ)2V2P(q)S(q)

と表される。ここで、ϕ は体積分率、Δρ はコントラスト、V は粒子体積、P(q) は粒子形状に依存するフォームファクター、S(q) は粒子間相関を表す構造因子である。

  • 単分散・希薄系では S(q)1 とみなせる
  • 濃厚系では S(q) のピーク位置から平均間隔、相互作用ポテンシャルなどが推定できる

8. コントラスト変調と同位体ラベリング

中性子散乱の特徴の一つは、「散乱長密度のコントラスト」を同位体置換により制御できる点にある。

8.1 H/D置換によるソフトマター・生体系の解析

水素(H)と重水素(D)は散乱長が大きく異なるため、

  • 溶媒をH2O / D2Oで混合し、特定の構成要素のコントラストをゼロにする(マッチング)
  • タンパク質やポリマーを選択的に重水素化し、複合系の中で特定成分だけを「見せる」
    といったコントラスト変調が可能である。

8.2 多相材料でのコントラスト設計

金属・エネルギー材料・複合材料でも、

  • 異なる同位体組成を持つ層を用いる
  • 含水率や有機成分のH/D比を調整する
    ことで、特定相・界面の散乱寄与を強調または消去する設計が可能である。X線では得られない情報を選択的に抽出できる点が、中性子のインパクトとなる。

9. 磁気SANS:磁区・スキルミオン・ナノ磁気構造

磁気SANSは、中性子スピンと磁化の相互作用を利用し、ナノ〜サブマイクロの磁気テクスチャを観察する手法である。

  • 強磁性・弱強磁性体の磁区サイズ分布
  • ナノ粒子集合体の磁気相関
  • B20型化合物などで形成されるスキルミオン格子の周期・方位
  • 交換スプリング磁石や多層膜の磁気コントラスト

などが対象となる。偏極SANS(中性子スピンを整列させ、スピン反転・非反転散乱を分離する方式)を用いると、核散乱と磁気散乱を分離し、磁気起源の散乱だけを抽出することができる。J-PARC BL15 TAIKAN や JRR-3 SANS-J などでは偏極解析オプションが整備されつつあり、界面磁性や微弱な磁気テクスチャの解析に活用されている。

10. 国内外の施設と装置の動向

10.1 国内施設

日本では、研究炉JRR-3(日本原子力研究開発機構)とパルス中性子源J-PARC MLFが中性子散乱の二本柱となっている。

  • JRR-3:連続中性子源として、従来から小角散乱装置 SANS-J / SANS-J-II、中性子反射率計、回折装置群が整備されてきた
  • J-PARC MLF:パルス中性子源として、TOF型SANS装置BL15 TAIKANや広角回折、非弾性散乱装置などが運転されている

BL15 TAIKAN は、小角〜広角を連続的にカバーするTOF-SANS/広角中性子散乱装置であり、サブ nm から μm スケールまでの構造を一度に測定できる設計となっている。

10.2 海外大型施設

海外では、

  • ILL(フランス)
  • ORNL SNS / HFIR(米国)
  • ISIS(英国)
  • NIST NCNR(米国)
    などに多数の中性子回折・SANS装置が設置されており、基礎物性から産業利用まで広範な研究が行われている。SANSの原理・解析に関するチュートリアル資料も豊富に公開されている。

11. 中性子回折・SANSで頻出する量とその解釈

中性子回折・SANSの解析で登場する代表的な量を整理する。

解釈主にどの手法で現れるか
格子定数・原子位置結晶構造の基本パラメータ粉末・単結晶中性子回折
Debye–Waller因子 Wj熱振動・静的不規則性中性子回折(温度依存測定)
散乱長密度 ρ(r)空間的な散乱力の分布SANS・反射率
コントラスト Δρ2相間の散乱長密度差SANS(H/D置換含む)
回転半径 Rg粒子・鎖の広がりSANS(Guinier領域)
Porod指数界面の鋭さ・フラクタル性SANS(高q領域)
磁気モーメント・磁気構造スピン配列とその大きさ中性子回折・磁気SANS
残留ひずみテンソル機械・構造材の内部応力中性子回折(応力測定)

これらを、実験条件(波長・qレンジ・偏極・環境条件)と組み合わせて解釈することで、原子スケールからメゾスコピックスケールにわたる構造・磁性情報を一貫した枠組みで記述できる。

まとめと展望

中性子回折と小角中性子散乱は、原子位置・軽元素・残留応力・磁気秩序といった「結晶の骨格」から、ナノ〜サブマイクロの不均一構造や磁気テクスチャまでを、バルク試料のまま非破壊で読み解くための散乱手法である。X線や電子線と異なる散乱長・同位体依存性・磁気感度を活かすことで、これらの手法は他のプローブでは補いにくい情報を提供する。

今後は、JRR-3の再稼働やJ-PARC MLFの装置高度化により、国内でも高分解能・高強度の中性子回折・SANS実験が一層行いやすくなると期待される。海外施設を含めた多施設連携、第一原理計算やマルチスケールシミュレーションとの統合解析、機械学習による大規模散乱データの解釈などを組み合わせることで、材料内部の階層構造と機能の関係をより詳細に描き出す研究展開が進むと考えられる。

関連研究・参考ソース