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放射光X線異常散乱(AXS)の原理

X線異常散乱(Anomalous X-ray Scattering: AXS)は、吸収端近傍で原子散乱因子がエネルギー依存で変化することを利用し、多成分系の構造情報を「元素選択的」に分離して取り出す手法である。全散乱(total scattering)やPDF、XAFS、RMC/AIMDと組み合わせることで、非晶質・液体・不規則合金の短距離秩序から中距離秩序までを同一の枠組みで制約しうる。

参考ドキュメント

  1. 早稲田嘉夫, 松原英一郎, X線異常散乱法の理論とその応用, 日本結晶学会誌 30(5), 383–396 (1988) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcrsj1959/30/5/30_5_383/_article/-char/ja
  2. S. Hosokawa, W. C. Pilgrim, H. Sinn, W. Petry, Anomalous X-ray Scattering, Journal of Large-Scale Research Facilities 1, A15 (2015) https://juser.fz-juelich.de/record/188103/files/115.pdf
  3. (日本語・国内)九州シンクロトロン光研究センター(SAGA-LS)年報・報告等:機能性ガラス材料に対するX線異常散乱(AXS)実験の報告(2018) https://www.saga-ls.jp/download/report/symposium/2018/p85-86.pdf

1. AXSの位置づけ

結晶構造解析の文脈でも「異常分散(異常散乱)」は位相決定(SAD/MAD)等で用いられるが、材料系のAXSが狙うのは主として以下である。

  • 多成分系の全散乱強度に含まれる重み(散乱コントラスト)を、入射エネルギーで制御する
  • その差分から、特定元素を含む部分構造因子(partial structure factor)や部分相関を抽出する
  • さらに実空間へ変換し、部分PDFや局所配位統計へつなげる

非晶質・液体・不規則合金では、平均構造だけでなく「どの元素どうしが、どの距離で、どの頻度で隣り合うか」が物性を左右する。AXSはこの問いに対して、X線で元素選択という自由度を追加する手段である。

2. 原子散乱因子の異常分散

2.1 原子散乱因子の複素表示

X線散乱における原子散乱因子は、一般に次で表される。

fj(Q,E)=fj0(Q)+fj(E)+ifj(E)
  • f0(Q):通常(非共鳴)の散乱因子(主に形状因子)
  • f(E):異常分散の実部(dispersion correction)
  • f(E):異常分散の虚部(吸収に対応)

吸収端近傍では f(E)f(E) が急峻に変化し、同じ原子種でも散乱振幅がエネルギーで変わる。これが「元素選択コントラスト」の起源である。

2.2 f(E) と吸収係数、f(E) とKramers–Kronig関係

吸収端近傍では、吸収係数 μ(E) の増大(吸収ピーク)が現れ、これは f(E) と結びつく。さらに f(E)f(E) と(因果律に基づく)Kramers–Kronig関係で結ばれるため、吸収スペクトルから f(E) を推定する枠組みが成立する。

3. 散乱強度と構造因子:多成分系で何が混ざって見えるか

3.1 構造因子と散乱強度の骨格

散乱ベクトル Q に対する散乱強度は、概念的には

I(Q,E)|F(Q,E)|2

であり、構造振幅 F は原子配置 rj に対して

F(Q,E)=jfj(Q,E)eiQrj

と書ける。ここで fj(Q,E) がエネルギー依存であることがAXSの鍵である。

3.2 全構造因子は部分構造因子の重み付き和

多成分系(元素種 α,β,)では、測定される全構造因子 S(Q,E) は、部分構造因子 Sαβ(Q) の重み付き和として表される(表式は流儀により異なるが、概念は共通である)。

一例として、Faber–Ziman型の重みを用いると

S(Q,E)=αβwαβ(E)Sαβ(Q)

ここで重み wαβ(E) は組成 cα と散乱因子 fα(E) に依存し、概略として

wαβ(E)cαcβfα(E)fβ(E)

のような形になる(規格化の取り方で係数は変わる)。したがって、特定元素Aの吸収端近傍で fA(E) を変えると、wAβ(E) が変化し、全構造因子における「Aが関与する相関」の寄与比が変わる。

4. AXSの基本戦略:差分で「Aが入る相関」だけを浮かび上がらせる

4.1 二つのエネルギーでの差分

吸収端近傍の二つのエネルギー E1,E2 を用意し、差分を取る。

ΔS(Q)=S(Q,E1)S(Q,E2)

もし E1E2 の選び方が適切で、特定元素Aのみが顕著に fA を変え、他元素はほぼ一定とみなせるならば、差分 ΔS(Q)

  • A–A 相関(SAA(Q)
  • A–B 相関(SAB(Q), SAC(Q), …)

といった「Aを含む部分構造因子」の線形結合として表される。すなわち、差分は「Aに由来するコントラスト変調」を抽出した観測量として働く。

4.2 多点エネルギー測定と線形方程式としての復元

三元系以上では未知の部分構造因子が増えるため、単純に2エネルギーだけでは不足することが多い。そこで、同一吸収端近傍で複数エネルギーを測定し、差分(あるいは同時フィット)を行って、次の線形問題として扱う。

Sobs(Q)=W(E)Spartial(Q)
  • Sobs:複数エネルギーで得た観測量(全構造因子や差分構造因子)
  • W(E):散乱因子に基づく重み行列
  • Spartial:求めたい部分構造因子ベクトル

観測本数(エネルギー点、さらに他のコントラスト実験)を増やすほど、逆推定が安定化する。中性子回折の散乱長コントラストや、別元素の吸収端でも同様の測定を加えると独立性が増す。

5. 実空間への接続

5.1 全散乱→PDFの基本式

全散乱から得た S(Q) を用いて、実空間相関 G(r)(PDFに相当)を得る代表式は次である。

G(r)=2π0QmaxQ[S(Q)1]sin(Qr)dQ

AXSでは、エネルギーごとの S(Q,E) や差分量 ΔS(Q) を通じて、部分相関に敏感な実空間指標(部分PDFに対応する量)を構成できる。結果として

  • 「Aの周りにBが何個いるか」
  • 「A–Bの結合距離分布がどう変わるか」
  • 「A–Aのクラスター傾向があるか」

といった化学短距離秩序(chemical SRO)の定量へ近づく。

5.2 配位数の定義(部分RDFの立場)

部分RDF gαβ(r) を仮定すれば、配位数(第一近接までの積分)は

Nαβ(rc)=4πρβ0rcr2gαβ(r)dr

で与えられる。rc(第一極小)の設定が推定値に影響するため、Qmax・窓関数・バックグラウンド補正などの不確かさも含めて感度を意識する必要がある。

6. 測定上の論点:吸収端近傍で何が難しくなるか

AXSは吸収端近傍で測定するため、通常の回折・全散乱より「吸収と二次過程」の影響が強くなる。

6.1 吸収補正と自己吸収

吸収端近傍では μ(E) が大きく変化し、試料内部での減衰が顕著になる。透過法・蛍光法の選択、試料厚み、幾何(入射角・検出角)により、自己吸収の補正が重要になる。

6.2 蛍光(fluorescence)とコンプトン散乱

吸収端近傍では蛍光が増加し、散乱信号に重畳する。エネルギー分解能を持つ検出器(半導体検出器)やアナライザ結晶を用いて蛍光成分を抑え、弾性散乱を抽出する設計が採られる。

6.3 規格化:S(Q)1 の高Q極限

全散乱・PDF解析では高QS(Q)1 を満たすように規格化することが多い。AXSではエネルギーごとに吸収やバックグラウンドが変わるため、規格化の整合性(エネルギー間での比較可能性)が結果の信頼性に直結する。

7. 発展形:DAFSとASAXS

7.1 DAFS(Diffraction Anomalous Fine Structure)

DAFSは「特定の回折条件(特定の原子配置に由来する散乱チャンネル)」を選び、その回折強度のエネルギー依存に現れる微細構造(XAFS様の振動)から、サイト選択的な局所構造・化学状態へ迫る枠組みである。結晶や準結晶、秩序化合金、界面・薄膜などで有効となる。

7.2 ASAXS(Anomalous Small-Angle X-ray Scattering)

ASAXSは小角散乱領域で異常分散を利用し、ナノスケールの組成揺らぎ・相分離・析出などを元素選択的コントラスト変調で分離する。広角AXSが主に原子配列(Åスケール)を対象にするのに対し、ASAXSは nm〜100 nm スケールの不均一性に強い。

8. どの系に効くか

8.1 機能性ガラス・ガラスセラミックス

AXSは、結晶ピークが弱い、あるいは中距離秩序が物性を左右するガラス材料で有効である。特定元素(例:Zr)の周りの中距離構造を元素選択的に評価し、熱的安定性や結晶化挙動と結びつける研究が報告されている。

8.2 相変化材料(PCM)や不規則系の機能材料

Ge–Sb–Te系に代表される相変化材料では、平均構造だけでなく局所配位や結合の分布が電気抵抗や相転移ダイナミクスに関与する。AXSは、特定元素近傍の相関を分離して議論するための基盤となる。

8.3 液体・電解質

液体や溶融塩、電解質のように、原子位置が熱揺らぎで平均化される系では、部分相関の抽出が核心となる。吸収端近傍でのAXSは、電解質中での特定元素周りの局所構造に感度を持ちうる。

9. モデリングとの統合

AXSから得られる情報は「部分相関に対する独立な制約」であるため、原子モデルの逆推定と相性がよい。

9.1 RMC(Reverse Monte Carlo)とAXS

RMCは、実験で得た S(Q) やPDFに一致するよう原子配置を更新し、整合する構造集合を構成する手法である。AXSで得た差分構造因子や多エネルギーの S(Q,E) を同時に拘束条件として導入すると、多成分系で部分相関の非一意性を抑えやすい。

9.2 EPSR(Empirical Potential Structure Refinement)

EPSRは参照ポテンシャルを導入し、実験整合と物理性(最近接距離や密度、化学結合の妥当性)を同時に確保する設計である。AXSと併用することで、元素選択の制約を加えた精密化が可能となる。

9.3 AIMDとの往復(前向き計算)

AIMDで生成した構造から Sαβ(Q) やPDFを前向き計算し、AXS観測量と比較することで、ポテンシャルや電子状態(結合性、電荷移動)の影響を検証できる。AXSは「どの部分相関が合っていないか」を局所化しやすく、モデル改善の方向を与える。

10. 関連手法との比較

観測スケール手法元素選択性得られる主情報強い対象
Å〜十Å広角全散乱・PDF低〜中(元素重み依存)二体相関の平均像非晶質、液体、ナノ材料
Å〜十ÅXAFS(EXAFS/XANES)吸収原子周りの局所配位・状態多成分系の局所構造
Å〜十ÅAXS(広角)中〜高(吸収端を利用)部分構造因子、化学SROの分離不規則合金、ガラス、PCM
nm〜100 nmSAXS低〜中(コントラスト次第)密度揺らぎ・相分離析出、相分離、界面
nm〜100 nmASAXS高(狙った元素で変調)ナノ不均一性の元素分解複合材料、析出、ナノ相分離
サイト選択DAFS高(回折条件+吸収端)サイト選択XAFS様情報結晶、秩序化合金、界面

まとめと展望

AXSは、吸収端近傍の異常分散を利用して散乱コントラストを制御し、多成分系の全散乱から「特定元素が関与する相関」を分離する手法である。広角AXSはÅスケールの化学短距離秩序や中距離秩序の議論を強化し、ASAXSやDAFSはそれぞれナノ不均一性やサイト選択局所構造へ拡張する。

今後は、(i) 多エネルギーAXSと全散乱PDF・XAFSを同時に拘束する逆推定(AXS-RMC/EPSR)の高度化、(ii) AIMDや機械学習ポテンシャルによる大規模統計モデルとの往復、(iii) 時分割測定やその場測定と組み合わせた不規則系の構造ダイナミクス追跡が、材料機能と原子相関を直接つなぐ展開として重要になると考えられる。

参考文献